1972 Juicy Lucy – Pieces

1972 Juicy Lucy - Pieces
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ミステリアスな「ジューシー・ルーシー(Juicy Lucy)」とは何者か?

その答えは常にグレン・’フェルナンド’・キャンベル(Glenn ‘Fernando’ Campbell)が教えてくれた。

大きな帽子をかぶりスチールギターを奏でるその男は、世間からミステリアスな目で見られることを楽しんでおり、彼の秘密の部分を公にすることはなかった。少なくとも私には彼はミステリアスなままであった。

しかし、こういう言い方もなんだが、「ジューシー・ルーシー」は紛れもなくロック界の潤滑油的な存在であったと言える。

音楽的に見ても、60年代のブルースブームから現れた最も評判が高いグループのひとつであった。彼らは洗練され、品があった。

また当時のロック魂とツアーに並々ならぬ意欲を持ったトップミュージシャンを抱えていた。彼らのデビューアルバムである『Juicy Lucy』は、1969年にヴァーティゴレーベル(Vertigo)よりリリースされ、裸の女性がぶどうやバナナ、食べかけのメロンなどに囲まれた悪趣味な見開きのアルバムジャケットで一躍有名となった。

素敵とは言い難いが、一度見たら忘れられないジャケットである。

「ジューシー・ルーシー」は、目覚ましいデビューと素晴らしい素質があるにも関わらず、彼らが世界的に認められたとは言えなかった。ボ・ディドリー(Bo Diddley)の”Who Do You Love”をカバーした作品と、それに続く”Pretty Woman”は1970年にトップ20 入りを果たす。

グレンはロック映画『Supersession』に出演し、「ジューシー・ルーシー」はヴァーティゴやポリドール(Polydor Records)、アイランドレコード(Island Records)などのレーベルで、『Lie Back And Enjoy It』『Pieces』『Get A Whiff Of This』などアルバムを数枚製作する。

その後1972年にバンドは解散してしまう。

大波乱のこの時代に、「ジューシー・ルーシー」は著しい変化を経験する。『Pieces』は、伝説のギタリスト、ミッキー・ムーディー(Micky Moody)を中心に、グレン・キャンベルがアメリカからイギリスに移ってくるところから始まり、「ジューシー・ルーシー」の最終形で終わる魅力的な英雄物語を表現しているアルバムである。

ジューシー・ルーシー(Juicy Lucy)のバイオグラフィ

「ジューシー・ルーシー」のルーツは、「ミスアンダストゥッド」(The Misunderstood)が母体となっており、このバンドは悲し気でまた優しさを持つラジオ・ワン(Radio One)のDJであるジョン・ピール(John Peel)から支持を受けていた。

グレン・キャンベルは、ただ楽し気にペダルスチールギターを弾くミュージシャンであるだけでなく、ロンドンを拠点とするアメリカ人であったという点も、ピールが熱心にサポートした理由の一つであろう。

キャンベルはまたとても面白く人を楽しませる性格であり、イギリスのビールが好物であった。彼ののんびりとしたユーモアのセンスは、プライベートでのイライラ、また容赦なく襲ってくる憂鬱を表現してこそ真のブルースマンである!と信じているイギリスのブルースミュージシャンの姿勢と正反対のものであった。

1966年

「ミスアンダストゥッド」は1966年に結成され、イギリスに拠点を移す際に再結成された。フォンタナ・レコード(Fontana Records)で、ルックスの良いのスティーブ・ホアード(Steve Hoard)を中心に”Children Of The Sun”を含むシングルを2曲製作した。

しかし結局より商業戦略に長けたジューシー・ルーシーにその座を奪われる。

ジューシー・ルーシーの初期メンバーは、レイ・オーウェン(Ray Owen)=ボーカル、グレン・キャンベル=スチールギター/マンドリン/ボーカル、ニール・ハバード(Neil Hubbard)=ギター、クリス・マーサー(Chris Mercer)=サックス/ピアノ、キース・エリス(Keith Ellis)=ベース/ボーカル、ピート・ドブソン(Pete Dobson)=ドラム)であり、ジョー・クッカー(Joe Cocker)も担当していたナイジェル・トーマス(Nigel Thomas)がマネジメントを行っていた。

ときに物議を醸すこともあった「精力的な音楽ビジネス界の大物」といわれたナイジェルは、心臓発作で数年前に亡くなっている。

アルバム制作の中心メンバーでもあるミッキー・ムーディー(1950年8月30日生まれ)は、ツアー中であったバンドを初めて見たときのことを覚えていると言う。

「まぎれもなくバンドの中心はグレンであった。彼らのファーストアルバムのフルーツに囲まれた女性のジャケットは皆の記憶にあるだろう!確かあの女性の名前はゼルダ・プラム(Zelda Plum)だったと思う。あれは本当によくできたアルバムで、彼らの初期のパフォーマンスを見たときのことはまだ覚えている。」

ミッキー・ムーディーは、イギリスのミドルズブラ出身であり、同じ学校には後にフリー(Free)やバッド・カンパニー(Bad Company)として有名となるポール・ロジャース(Paul Rodgers)もいた。

1967年

ミッキーとポールは、ザ・ロードナンナーズ(The Roadrunners)というバンドを結成し(後に1967年にロンドンに移ってからはザ・ワイルド・フラワーズ(The Wild Flowers)に改名)、彼ら曰く「飢え死にしそうだった!」時代を過ごす。

ポール・ロジャースがポール・コゾフ(Paul Kossoff)、サイモン・カーク(Simon Kirke)らとフリーを結成する頃、ミッキーはクラシックギターの勉強のために故郷に戻る。ムーディーは当時のことを「ノース・イースト・イングランド(the North East)に戻って、地方のクラブオーナーでシンガーでもあったジョン・マッコイ(John McCoy)にトラムライン(Tramline)というブルースバンドをやらないかと声をかけられたんだ。」と話している。

その後レコード会社の社長であったクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)と親交を深め、ブラックウェルのレーベル、アイランド・レコード(Island Records)にて2枚のアルバムをリリースする。

1969年

1969年3月、ムーディーは有名なソウルバンド、ルーカス&ザ・マイク・コットン・サウンド(Lucas & The Mike Cotton Sound)のオーディションを受ける。

1970年

コンサートを行ったりもしたが、1970年には数か月間ズート・マネー(Zoot Money)が率いるバンドへと移る。

そこでボーカルを担当していたポール・ウィリアムズ(Paul Williams)知り合うこととなる。このときポール・ウィリアムズはジューシー・ルーシーに参加していたのである。

ミッキーはジューシー・ルーシーについてこう語っている。

「レイ・オーウェンは数ヶ月でクビになったんだ。だからポールがコンサートをやらなきゃいけなかった。ポールからニール・ハバードが抜けるからリードギターをやらないかって聞かれたんだ。もちろん『やる!』って答えたさ。それからすぐにアルバム『Lie Back And Enjoy It』に取りかかった。

コンサートもたくさんやって、特にドイツでの評判が良くて有名になったんだ。」

しかしクラブなどでブレイクし、世間に受け入れられるのは簡単なことではなかった。

1971年

1971年にバンドが解散する前に、アルバム『Get A Whiff A This』をリリースしている。

その後グレン・キャンベルは気落ちしてアメリカに戻った。

しかしキャンベルとムーディーが一緒にギターをプレイしていた時期は素晴らしかったと言える。後にムーディーは、

「お互いの領域に踏み込まなかったことが良かったんだと思う。グレンのギターが好きだったし、自分のプレイスタイルもボトルネック奏法にしてみたり少し変えたりもした。

ああ、グレンが大きい帽子をかぶってたのも覚えてるよ。僕らがやっていたことはあの時代の流行りだったんだ。」と話している。

中心メンバーがいなくなったにも関わらず、ポール・ウィリアムズはそこであきらめることはなかった。

「ポールはバンドを残したかったんだ。僕にリードギターとして残ってほしいと言われたし、ボトルネック奏法でバンドをある意味再結成したいと言っていた。

僕らにはブラッドウィン・ピッグ(Blodwyn Pig)のロン・バーグ(Ron Berg)とアンディ・パイル(Andy Pyle)のリズムセクションがあった。

メンバーは時々変わったし、バーニー・マースデン(Bernie Marsden)が入ることもあったよ。ツインギターにしたかったから、もう一人ギタリストを探していた。

重すぎないアメリカンファンキーサウンドを求めていたからリズムプレイヤーも必要としていた。バーニーが入ったものの、残念ながら彼はふさわしくなかった。エリック・クラプトン(Eric Clapton)テイストが強かったからね。」

とムーディーは語る。

ジューシー・ルーシー(Juicy Lucy)第3期

1971年

ジューシー・ルーシーの第3バージョン(そしてラストバージョンとなる)は、1971年7月から1972年6月の期間であろう。

リズムプレイヤーのデイブ・テッドストーン(Dave Tedstone)が参加していた時期もあるが、アルバム『Pieces』の主要メンバーは、ポール・ウィリアムズ(ボーカル)、ミッキー・ムーディー(ギター)、ジーン・ルーセル(Jean Roussel)=キーボード、ロン・バーグ(ドラム)、アンディ・パイル(ベース)であった。

後にポール・ウィリアムズは、ジョン・ハイズマン(Jon Hiseman)率いるバンド、テンペスト(Tempest)に加入するためバンドを去り、ジーン・ルーセルはキャット・スティーブンス(Cat Stevens)と組み、またリズムセクションはサヴォイ・ブラウン(Savoy Brown)に変更になる。その間、ジューシー・ルーシーのスタイルは、ありきたりなブルースサウンドからかけ離れていく。

ミッキーは「僕たちの音楽はもっとメロウなものになった。ポリドールと契約し、グリース・バンド(Grease Band)のドラマーだったブルース・ロウランド(Bruce Rowland)プロデュースで『Pieces』のレコーディングをした。」と語る。

このアルバムは、1971年12月、イギリス・バーンズ(Barnes)のオリンピック・スタジオ(Olympic Studios)にて収録された。

ほとんどの曲が、ポールと友人の作詞家ジョン・エドワーズ(John Edwards)によって手掛けられたものである。

数名のゲスト出演もあり、アルバート・リー(Albert Lee)とチャズ・ホッジズ(Chas Hodges)はバックコーラスとして、スモール・フェイセス(the Small Faces)のイアン・マクレガン(Ian McLegan)とワインダー・ケー・フロッグ(Wynder K. Frogg)のミック・ウェイバー(Mick Weaver)はキーボードとして参加している。

この二人とはアメリカ、ロサンゼルス(Los Angeles)にて再びアルバム制作を行うことになる。

『Pieces』は、チャック・ベリー(Chuck Berry)の奮い立つような①”Promised Land“で始まる。この曲は彼の師へのトリビュートと言われている。

「全体的にメロウな仕上がりになっているアルバムだけど、ロックンロールもまだできるんだってことを証明したかったんだ。」とミッキーは語る。「②”Cuckoo”は、タジ・マハール(Taj Mahal)のアルバム『The Natch’l Blues』を意識した曲なんだ。」この曲を聞くと、バンドが多少なりともウエスト・コーストの影響を受けていたことがわかる。

「タジ・マハールとライ・クーダー(Ry Cooder)はかなり好きだったんだ。④”It Ain’t Easy”は、ズート・マネーが書いてポールに譲渡された曲。⑤”Suicide Pilot”は、ウィリアムズとエドワーズによるロックンロール。いくつかの曲は70年代初期の歌詞スタイルで、⑦”Dead Flowers In The Mirror”なんかもそう。

最後の⑨”How Can A Poor Man Stand These Times”は、ライ・クーダーのファーストアルバムからのカットで、ブルースシンガーのアルフレッド・リード(Alfred Reed)が書いた曲さ。このアルバムは成功したのかって?そうは思わないね。

それに見合う報酬をまだもらってないよ!」 夏にアルバムがリリースされ、ポールがテンペストに加入するために脱退してすぐ、バンドは事実上の解散を迎えることになる。しかしフランキー・ミラー(Frankie Miller)とコンサートを数回行い、ボビー・ハリソン(Bobby Harrison)がボーカルを担当するなど、バンドはなんとか存続しようと努力を続ける。

「フランキー・ミラーをバンドに誘ったんだけど、彼のマネジメントサイドからNOと言われたんだ。でもそれからボビーの方からマネジメント取引ができるから、一緒にバンドをやらないかと。

1972年

それで1972年にSNAFUというバンドを結成したんだ。ジョー・クッカーとヨーロッパツアーをしたり、スレイド(Slade)とコンサートをしたよ。マネージャーだったナイジェル・トーマスがジョー・クッカーの担当だったから、その関係もあったんだ。一時期マイク・パト(Mike Patto)と一緒にボクサー(Boxer)に入らないかという誘いを受けたんだけど、あんまり魅力的じゃなかったんだ。

だからボビー・ハリソンと組んだ。それがジューシー・ルーシーの最終形だったわけさ。誓いと高い希望を持ってスタートしたバンドの悲しい終わり方だったよ。」

驚くことに、メンバー全員と音楽の方向性が変わったにも関わらず、バンドの名前は最後まで残り続けた。

その後ムーディーはSNAFUと共に3枚のアルバムを制作する。

1976年

1976年にバンドが解散した後、ムーディーはグラハム・ボネット(Graham Bonnett)、フランキー・ミラー、クリス・ファーロウ(Chris Farlowe)、シーナ・イーストン(Sheena Easton)、エリック・バードン(Eric Burdon)、ロジャー・チャップマン(Roger Chapman)らのバックシンガーとして活動する。

70年代半ばには、デイビッド・カヴァデール(David Coverdale)にホワイトスネイク(Whitesnake)のファーストアルバムを一緒に作らないかと声をかけられる。ミッキーはそのアルバムでリードギターとして4曲に参加し、ホワイトスネイクのワールドツアーにも参加している。

ムーディーはボブ・ヤング(Bob Young)とも活動し(ザ・ヤング&ムーディー・バンド(the Young And Moody Band)のアルバムは、レパートリー・レコード(Repertoire Records)から再リリースされている)、バーニー・マースデンとザ・ムーディー・マースデン・バンド(the Moody Marsden Band)としても活動した。

その後ムーディーはポール・ウィリアムズと再タッグを組み、ブルー・サンダー(Blue Thunder)というバンドを結成した。きっと彼らは、最後の客が帰りバーで一杯やる頃、ジューシー・ルーシーが好き放題やっていた頃の思い出話をしていることだろう。

Written by Marios

【曲目】

1. Promised Land
2. Cuckoo
3. All My Life
4. It Ain’t Easy
5. Suicide Pilot
6. Why Can’t It Happen To Me1
7. Dead Flowers In The Mirror
8. Prospector Dan
9. How Can A Poor Man Stand These Times And Live

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1972 Juicy Lucy – Piecesのメンバー

Ron Berg – Drums
Micky Moody – Guitar
Andy Pyle – Bass
Jean Roussel – Keyboards
Paul Williams – Keyboards, Percussion, Vocals

参加メンバー
Ian McLagan – Keyboards
Mick Weaver – Keyboards
Zoot Money – Keyboards

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