1971 Ian And Sylvia – The Beginning Of The End

1971 Ian And Sylvia - The Beginning Of The End
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イアン・タイソン(Ian Tyson)の生い立ち

1933年、ブリティッシュコロンビア(BC)州「ヴィクトリア(Victoria)」で生まれのイアン・タイソン(Ian Tyson)は、10代になって初めてロデオの事故に遭って病院で寝込んでいたときに初めてギターを手にした。足の骨折が癒えてからもギターの練習と詩人と作家としての活動を続け、そして作曲を始めた。

バンクーバー(Vancouver)の美術学校(VSA)に在籍中の1956年にバンクーバー・ハイデルバーグ・カフェ(Vancouver’s Heidelberg Cafe)で歌手デビューした。教育を受ける余裕はあったかもしれないのは理解しつつ、彼はプレイを続け後にザ・センセーショナル・ストライプス(The Sensational Stripes)に加入。彼等はブリティッシュコロンビア大学(UBC)の他の生徒たちと組んだ有望なロックンロール・バンドで、タイソンに今までと違ったサウンドに触れさせる機会となった。

それでもなお、アーティストになる夢を追い求めた彼はトロント(Toronto)に移り、1958年にVSAを卒業した商業アーティストとして職を得、ヨークヴィル(Yorkville)で急増するフォーク・シーンの波に乗ってローカル・クラブでの演奏で生計を立てた。

シルヴィア・フリッカー(Sylvia Fricker)と出会う

1959年彼はオンタリオ(Ontario)州「チャタム(Chatham)」の大都市で成功を夢見るもう一人の歌手シルヴィア・フリッカー(Sylvia Fricker)に紹介された。

意気投合した彼等は始めの頃はヴィレッジ・コーナー(Village Corner)で共に演奏するようになり、遂にはシーンでも最注目のれっきとしたデュオとなったのだ。

1961年

彼等は1961年に結婚し次の年には薄暗いトロントのクラブからUS北東部沿岸中のカフェへと進出、そして、オンタリオのオリリア(Orillia)の有名なマリポーサ・フォーク・フェスティバルでの多数にわたる出演の初回を含むフェスティバルの彼等の演奏によって熱烈なファンを得た。

’61のニューヨーク(New York)への移動後、グリーンウィッチ(Greenwich)で演奏した時、ボブ・ディラン(Bob Dylan)のマネージャーであるアルバート・グロスマン(Albert Grossman)が彼等を観て気に入った。そして彼は彼等の代理をオファーし、その直後にはこのデュオの演奏活動のエリアをシカゴ(Chicago)/デトロイト(Detroit)エリアから西海岸まで拡大した。

1962年

グロスマンは、1962年夏に彼等自身の名前をタイトルとしたデビュー作をリリースしたアメリカのヴァンガード・レコード(Vanguard Records)と契約した。これは数十年の歴代のレコードを通じてフォーク、カントリーを超え、ブルースと初期のポップを掘り下げた最初のものである。

“CC Rider”、” Down By The Willow Garden”、” Handsome Molly”のカヴァーは19世紀のスタンダード”Un Canadien Errant”や”Pride of Petrovar”などによる伝説のカナダ音楽の旗がはためく兆候を内包していた。その歌は2ステップの速いテンポからメロディックな”Got No More Home Than A Dog”(伝統的なホーボーの歌)や”Rocks And Gravel”のようなゆっくりした曲までの彼等の広がりを見せた。

1963年

1963年の初め、カナダでかつて書かれた偉大な歌のひとつとして知られる『Four Strong Winds』を発表した。彼等の2作目のタイトル・トラックはほとんど国境の両サイドでチャートには影響しなかったが、この歌はボブ・ディラン(Bod Dylan)、ニール・ヤング(Neil Young)のカヴァーからヘップ・スターズ(The Hep Stars)によるスウェーデン語バージョンまである。またアンサンブル・キャストによって演奏され、それは伝統的に毎年エドモントン音楽祭のトリをとっている。

アルバムの他の曲は、フレンチ・カナディアン・ソングの新たなミックス(“V’la L’bon Vent”)、スコットランドのバラッド”Every Night When The Sun Goes Down”、ディランのカヴァー”Tomorrow Is A Long Time”、南部の伝統的刑務所のワーク・ソング”Poor Lazarus”などで、”Jesus Met The Woman At The Well”と”Every Time I Feel The Spirit”はこのデュオのゴスペル・ルーツを見せた。

63年の2枚目のアルバムは、一般的な反響だけでなく、批判的なレビューが混在していた。

『NORTHERN JOURNEY』は母国でトップ40に入ったが、米国では70位がピークだった。アカペラ基調の”Texas Rangers”では、イアンの嘆きのカウボーイがバックを努める。”Moonshine Can” and “Little Beggar Man”においても独唱がフィーチャーされており、ゴスペルのスタンダード”Swing Down Chariot”、シルヴィアが初めて単独で書きれ録音された歌、思慮深げな”You Were On My Mind”。これは後にボビー・ベア、サンフランシスコ(San Fransisco)のフォーク/ロックバンドのウィ・ファイヴ(We Five)、そしてイギリスのポップスターのクリスペイン・St・ピーターによってカヴァーされている。

1964年

タイソン夫妻はそれぞれキャリアの初期にゴードン・ライトフット(Gordon Lightfoot)に出会っており1964年の『EARLY MORNING RAIN』では彼の曲”For Lovin’ Me”とタイトル・トラックをフィーチャーしている。母国ではトップ40位を記録したが、USでは77位止まりとなった。

ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)の”Come In Stranger”はこのレコードにおける数少ないカヴァー曲で、デュオがアルバムの殆どを自分たちの作品の録音で埋めるようになった最初である。”Travelling Drummer”のようなカナディアンのルーツの部分を中心にしつつ、イアンとCBCジャーナリストのピーター・ グゾウスキー(Peter Gzowski)との共作”Song For Canada”のようにしばしば政治的な要素がみられた。

1965年

その年の後半にカナダに戻った後、’65の春に彼等の最初の子どもクレイトン・ドーソン・タイソン(Clayton Dawson Tyson)を産むために時間を割いた。

この年彼等はこの後スタジオには戻らず『PLAY ONE MORE』をリリースした。ザ・ラスカルズ(The Rascals)の後のフェリックス・パパラルディ(Felix Pappalardi)が演奏に参加し、この先駆者よりもさらにポップな気分を身に着けたレコード制作の手助けをした。

バート・バカラック(Burt Bacharach)の”24 Hours To Tulsa”のカヴァーとタイトル・トラックではファンが耳慣れていたよりも充実したバンド・サウンドを示し、売上は期待していたよりも低い方向に転換することとなった。

実験のさらなる証拠はシルヴィアの”Gifts Are For Giving”とイアンの”When I Was A Cowboy”のオルガンに明らかに現れている。以前のレコードと違って、この作品には伝統的フォークソングの改作はないが、典型的なサウンドの音楽が“Changes”ではスタンダード・ギターとオートハープにより、”The French Girl,”ではストリングスの伴奏のアレンジ、バンジョーがドライブする“Molly and Tenbrooks”などの楽曲で披露されている。

ともかくこの時ヴァンガードとの契約終了を切望していた彼等は次のプロジェクト『SO MUCH FOR DREAMING』ではブルースによる試みを行った。

1966年

1966年の秋にリリースした”Catfish Blues”、”The Circle Game”を含めてシルヴィアが多くの曲でリードをとっているこのレコードは、ファンも批評家もこれを投げ出したのを除けば彼等の全てがあった。

“Come All Ye Fair And Tender Ladies”はイアンのペンによるミンストレル風のバラッド、そして”Cutty Wren”、”Summer Wages”での彼等が好んだ航海生活に向けた時折の気持ちの揺らぎを含んでいる。

1968年

新しいレーベルMGMでのファースト・アルバムは’68の『THE LOVIN’ SOUND』である。彼等はよりポップで親しみやすいアルバムをスタジオから生み出すことを意図してプロデューサーのジョン・コート(John Court)を新しく迎えた。

タイトルさえもが、この時代にもっともホットなグループであったラヴィン・スプーンフル(Lovin’ Spoonful)の転用で、彼等の変化を反映している。トップの”Windy Weather”はアソシエイション(Association)の”Windy”とママス&パパス(Mamas and Papas)の”Monday Monday”の塊以外の何者でもないと批判を受けた。

だが、彼等はフォークのルーツへ執着していて、ディランの”I Don’t Believe You”をカヴァーしたものの、フラワー・パワーのアレンジによってこれも批判の対象となった。ここでのただ一つのカントリー・ソングはジョニー・キャッシュの“Big River”である。

ストレートなカントリーのアルバムを作ることを期待して、彼等は荷物をまとめて新しい一時的な住処であるミュージック・シティ(Music City)を作った。

しかし、楽曲を書いている間、ヴァンガード・レコードにもう1枚のアルバムを作る義務があることが知らされた。彼等の契約上の義務は’68以前に『NASHVILLE』というマッチしたタイトルの作品によって終了した。

他の全ての実験性を排除し、プロデューサーのエリオット・メイザー(Elliot Mazer)を雇いストレートなカントリー・アルバムをリリースした。そこではまた新しいボブ・ディランのカヴァー2曲 – “The Mighty Quinn”と”This Wheel’s On Fire,”がフィーチャーされていた。そして当時のカントリー・ミュージックの状況変化に合わせてバックアップとしてストリングが多用されている。

1968年『FULL CIRCLE』がリリースされた時、彼等はすでに1年がかりの徹底したツアーの真っ最中であった。

レコード会社の重役がデュオの創作に自由裁量を認めたため、アルバムは前作までと比べより実験的になっている。結果として、一種の新世代のカントリー・ウエスタンの実験し放題の結果となった。トップの”Here’s To You”はカントリー・ソングで奏でられるスティール・ギターでさらにポップなアレンジのサウンドが耳に飛び込んでくる。義務的にディランのカヴァー”Tears of Rage”と前作アルバム曲のリメイク”Mr Spoons”、彼等の息子のクレイについての歌も含まれている。

レコード会社のスーツ族のアドバイスによってステージショーを作り直し、エイモス・ギャレット(Amos Garrett)、バディ・ケージ(Buddy Cage)、ケン・カルムスキー(Ken Kalmusky)、ND・スマート(ND Smart)らと新しいストレートなカントリーのバック・バンドを結成した。彼等自身イアン・タイソン・アンド・ザ・グレート・スペックルド・バード(Ian Tyson & The Great Speckled Bird)と名乗りさっそくアトランタ・ポップ・フェスティバル、フェスティバル・エクスプレス1970を含む大陸ツアーに出た。

1970年代

二枚組のベスト集の後、不運なアンペックス(Ampex)レーベルからのアルバム『GREAT SPECKLED BIRD』で’70年代は幕を切った。

トッド・ラングレン(Todd Rungren)のプロデュースで、メインストリームとしては内容が実験的過ぎ、素早くシーンを駆け抜けてしまった。シルヴィアの”Trucker’s Cafe”は型通りの傷心のチューン、ワルツにインスパイアされた”Flies in the Bottle”、アップビートの”Love What You’re Doing Child”とゴスペルにインスパイアされた”We Sail”など。

‘71年春の彼等の『IAN & SYLVIA』と名付けられたセカンド・アルバムは新しいレーベル、コロンビア(Columbia)での最初のアルバムとなった。

それぞれの楽曲はさらなるカントリー・フレーバーをかき回しているが、実際ハーモニー・デュオのものとしてはそれはわずかである。シルヴィアのスローでブルージーな感触の”Midnight Barney”、イアンの物語風の”Lincoln Freed Me”、アルバム『SO MUCH FOR DREAMING』からの”Summer Wages”のリメイク、フォーク・スタンダードのカヴァー”Needle of Death”は特にセールスには結びつかなかった。

これは国境の両サイドにおいてトップ50位にとどく前に止まってしまった。ファースト・シングルは”Creators of Rain”でカナダにおいて#22位に留まった”More Often Than Not”がその後を追いかけた。

彼等共同の最後のアルバムは1972年『YOU WERE ON MY MIND』で、1年後にオリジナルの楽曲で制作された。

シルヴィアのタイトル・トラックは初期のアルバムのリメイクであり、一種の原点回帰といえる。彼等共同の最後のシングルはカナダ・チャートで4位をマークした。トロントに還った後、彼等は”Nashville North”というCTVのバラエティ・ショーの司会を’74年の初めの2シーズン担当した。

デュオは1975年に最後の公演を行い、その年の後半に比較的有効的な離婚を経験した。

Written by Marios

【曲目】

1. More Often Than Not (David Wiffen)
2. Creators Of Rain
3. Summer Wages (Ian Tyson)
4. Midnight
5. Barney
6. Some Kind Of Fool (Ian Tyson)
7. Shark And The Cockroach
8. Last Lonely Eagle (John Dawson)
9. Lincoln Freed Me (David Paton)
10.Needle Of Death (Bert Jansch)
11.Everybody Has To Say Goodbye (Sylvia Tyson)
12.Give It To The World (Ian Tyson)
13.Jordan Station
14.Long Beach
15.Love Is Strange

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1971 Ian And Sylvia – The Beginning Of The Endのメンバー

Ian Tyson – Vocals, Guitar
Sylvia Tyson – Vocals, Piano
Ken Asher – Harpsichord, Organ
David Briggs – Piano
Kenny Buttrey – Drums
Lloyd Green – Guitar
Kirk Hamilton – Bass, Vibraphone
Buddy Harman – Drums
Ernie Hayes – Organ, Piano
John Hill – String Arrangements
Herb Lovelle – Drums
Charlie McCoy – Harmonica
Weldon Myrick – Guitar
Norbert Putnam – Bass
Joe Renzetti – Guitar
Stuart Scharf – Guitar
David Wilcox – Guitar, Mandolin

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