1972~1984 チューインガムについて

1972 チューインガムについて
評価投稿数: 0
0

「チューインガム」は、1959年8月21日生まれの松田りか、と1961年7月5日生まれの松田マミによる、当時13歳(中学1年)と11歳(小学5年)のちびっ子による女性フォークデュオである。

チューインガムのバイオグラフィ

チューインガムの姉・松田りか、と妹・松田マミは、大阪府豊中市で育つ。「りか」は、6歳から、「マミ」は5歳からピアノを習いはじめる。

それもそのはず、彼女たちの家族は音楽一家でお父さんは、NHK大阪放送合唱団の団員で宝塚音楽学校のジャズボーカルを教えていた声楽の先生。母親もおなじくNHK合唱団員。(当時)

彼女たちのトレードマークとなっているギターは、なんとデビュー1年前からヤマハ音楽教室へ通って学んだとのことで、暦は浅い。

妹の「マミ」は詩を書くのが好きで、お姉ちゃんの「りか」は作曲するのが好きという、すでにシンガーソングライティングチームが出来上がっている。

1972年 13歳と11歳のころ

1972年6月21日にCBSソニーより”風と落葉と旅びと”でデビュー。

当時、豊中市の中学1年生と小学5年生だった二人は、グループ名を大好きだった男性俳優「沖雅美」から拝借した。

沖雅美のどこがチューインガムだろう?、彼女たちいわく「沖」を音読み?してチュウ、なかを英語にしてイン?雅美をガミと読んで、チューインガミとして、最終的にチューインガムとした。

天才登場!史上最年少のシンガーソングライター!というキャッチコピーで、当時新進レコード会社として、着実にヒットを連発していたCBSソニーの新人歌手として、大きくフューチャーされ、10万枚のヒットを飛ばし、同年CBSソニー賞’72も受賞。

1972年という年に「最年少、女性シンガーソングライターデュオ」という新しい潮流を作ったチューインガムは、間髪入れずにその半年後の10月8日には、

合歓の郷野外ホールで開催された、ヤマハ音楽振興会主催の音楽コンテスト『ヤマハポピュラーソングコンテスト』の第4回大会へ出場。

井上陽水・九重祐三子をさしおいて、父親が作った”ゴリラの唄”で、なんと最優秀グランプリをかっさらってしまう。

当時の日本は高度成長期まっしぐらで、光化学スモッグなど環境問題が少しづつ取りざたされていたが、まだまだ土人蔑視やモラルがそこまで、全国民に行き渡っていなかったころに、いきなりゴリラの立場になって、動物園の檻の中にいる悲しさを歌った歌詞は、「環境保護」「動物愛護」の観点からみても、当時としては衝撃的な内容である。

同月10月21日には2ndシングル”岡田さんの手紙”と同時に1stアルバム『風と落葉と旅びと/岡田さんの手紙』もリリース。

1973年 14歳と12歳のころ

1973年1月21日には、ポプコンでグランプリを獲得した”ゴリラの歌”を発売。

その勢いで、全国各地のヤマハの楽器店系列のレコード屋さんに、巡業や営業も多かったという。

このころは、近代映画や明星などの、アイドル雑誌にも定期的に登場している。

当年は、またもや5月20日に合歓の郷野外ホールにて『第5回ポピュラーソングコンテスト』の本選大会がおこなわれ、平和な世界を願って姉妹が作った”動物たちの世界”が入賞。

その流れで、3rdシングル”逃げた小鳥”とセカンドアルバム『逃げた小鳥 / 赤い風船』を7月1日に同時リリースしている。

当時のポプコンは、ヤマハの一大プロジェクトと世間の認知度も高かったせいか、チューインガムは、各地の地域大会にゲストとして呼ばれることも少なくなかった。

同年9月1日には、4thシングル”サポディラの唄”を発売。

1974年 15歳と13歳のころ

1974年に入っても、チューインガムは定期的に、シングルを発売する。

それはやはり、ポプコン・グランプリ受賞者という名誉が当分つきまとっていたから、特別待遇だっといえるかもしれない。

普通の歌手なら、ヒットが続かないと確実に次はないので…

2月21日に、6thシングル”リルケの詩集”、8月1日には7thシングル”トヨナカ・シティー”を発売。

そして、10月13日に再び第8回(1年に何度もあるので回数名増えている)ポピュラーコンテストのつま恋本選会へ、参加して再び!”チャップリンに愛をこめて”でグランプリを受賞している。

その勢いが収束しないうちに、12月21日の年末に、上記を8thシングルとして発売した。

1975年 16歳と14歳のころ

同じ芸能界にあっても、いっぽうはアイドルでテレビとヒットチャートを賑わす。

しかし、チューインガムが活動していた場所はヒットソングとは無縁で、ポプコンは特異な存在だった。なんせ、グランプリを獲得したからといって、そのまま一般庶民の評価(レコードセールス)とイコールとなることはなかったからで…

新しい歌手の登竜門の域を出なかったのである。

そう考えると、チューインガムも、はやく安定した地位のため、次のビッグヒットが欲しかっただろう。

全作品も含め、ちょっと社会的な知的に感じる唄が、年齢不相応にくりかえされたので、1975年の夏に発売された9thシングル”ひとりぼっちの夏”、年末の12月発売10th”かたくりの花”で、フォークから、歌謡曲へと歩み寄った。

1976年 17歳と15歳のころ

本人たちも、「歌の道よりも、学校を中心に考えています。」と言っていた彼女たち、その比重が、学業へとスイッチしていったのか、

1976年は6月21日に、11thシングル”だいだいラプソディー”で、長期の休止に入る。

最後のシングルにはデビューから4年間で成長した彼女たちの様子を、りかが157cm、マミが153cmと年頃の女性なみに成長したことと、「キレイになったね」と言われることが多くなったともらしている。

最後の夏には、チューインガム サマー・キャンペーンと銘打って全国へコンサート巡業をしている。

この後、2年間のアメリカ留学生活を送るのである。

1977年 18歳と16歳のころ

活動休止。

1978年 19歳と17歳のころ

アメリカ留学

1979年20歳と18歳のころ

アメリカ留学 帰国

1980年 21歳と19歳のころ

2年間のアメリカ生活のあと、チューインガムの松田りかと、松田マミは活動の拠点を、大阪から東京に移し、

グループ名を「バル・バルーン」に改名。

5月21日に発表されたシングル”バハマ”には、もうチューインガムの淡い子供心のフォークは皆無で、年頃のお姉さんのシティ・ポップ、ダンス歌謡と化している。

“バハマ”がヒットせずにコケたので続く、シングル”ブロークン・ハート”では、ちょっとワイルドなロック調な作品で、マミはステージで赤いエレキギターを演奏していた。

アメリカ帰国の影響か?かなり、欧米の洋楽スタイルのナンバーである。

1981年 22歳と20歳のころ

シングル発売なし。

1982年 23歳と21歳のころ

本人たちの意思に反して、事務所にまたしても「ラッキー・リップス(Lucky Lips)」というグループ名に改名させられ、8月21日にシングル”黄昏ドライブ・マップ”を発売。

1980年代初頭、大瀧詠一のロンバケを思い出させる洗練されたリゾート感覚の秀作だ。

1983年 24歳と22歳のころ

今度は、ギャグか自虐ネタか?

私たちをおぼえていますか?というキャンペーンも平行しながら、デュオ名をもう1度、チューインガムに戻し、

淡い学生時代を思い出す、哀愁のある佳作を発表。少し久保田早紀の”異邦人”に出だしのメロディが似ているが、そこはご愛嬌。

1984年 25歳と23歳のころ

いよいよ、時代はアイドル全盛のときにあって、ジャンルが不明瞭なチューインガムは居場所がなかったが、

ラストシングル”よりそってめらんこりい”を同路線に合わし、10月21日に発売したがヒットせずに、とうとう活動は中止となった。

チューインガムの歌声はどんな感じ? 声質とサウンドはどうなの?

チューインガムのサウンドをひと言で表すなら、「良質のフォークソング」である。

そして、歌詞の内容が当時は、学生生活だった二人の等身大の内容で、濃い恋愛話もなく純粋に日々の生活の出来事を書き綴っている。

ただ、このプロジェクトは本人たちが子供ということもあり、松田篝という父親ミュージシャンやその仲間が、周りを固めていたのは間違いない。

だからといって、松田篝というパパが裏であやつっていただけではないし、特にヤマハのポプコンに出場した際には、娘たちに負けずおとらず、父親「松田篝」の才能が十二分に発揮された。

それは、チューインガムのグランプリ曲をきっかけに、ポプコン歌手への楽曲提供の常連となったからだ。

ヒットチャートを賑わせる、筒美京平とまではいかないが、

1973年伊勢功一の”さすらいの美学”でも作詞作曲を担当し、彼をグランプリへと押し上げているし、1974年にも、あとにロック歌手としてブレイクする「葛城ゆき」の”木曽は山の中”も作詞作曲し、第7回ヤマハポピュラーソングコンテストで、彼女が最優秀賞を受賞している。

チューインガムは、1970年代の初めから中ごろまで、駆け抜けていった青春である。

流れとしては、やはり日本のフォークブームを汲んでいるので、森山良子・シモンズ・やまがたすみこと同系統になるはずだ。

このメンツがお好みなら、チューインガム未経験者でも彼女たちの音楽を聴く価値はある。

やはり、思春期の女性にしか表現できない、裏表のない純粋な思いがフォークサウンドと、ハイトーンの伸びやかな歌声にはぴったりくるのではないだろうか。

彼女たちと1970年代という青春を過ごした人たちは、今もチューインガムのことを大切な宝物として、その散らばった宝物(資料)を集めて、陰ながら応援し続けている。

なお、彼女たちがジングルで作った”海の見える放送局”は、1970年代から50年近く経った、今にいたるまで、ラジオ関西のイメージソングとして放送開始や終了時、局名告知のときに、流れ続けている。

チューインガムの口コミ

感想を追加する


Submit your review
*必須項目です

チューインガムのディスコグラフィ

チューインガムのシングル(EP)

チューインガムのシングル(EP)
  1. 風と落葉と旅びと/ぼくらのもくばはせかいをまわる(1972年6月21日)
  2. 岡田さんの手紙/木彫りの子熊(1972年10月21日)
  3. ゴリラの歌/まだらうさぎのムー(1973年1月21日)
  4. 逃げた小鳥/お寺参り(1973年7月1日)
  5. サポディラの唄/夕陽よおしえて(1973年9月1日)
  6. リルケの詩集/この花をあなたに(1974年2月21日)
  7. トヨナカ・シティー/ゆらゆらゆれて(1974年8月1日)
  8. チャップリンに愛をこめて/思い出のテニスコート(1974年12月21日)
  9. ひとりぼっちの夏/夕日の涙(1975年8月1日)
  10. かたくりの花/去年の日記(1975年12月21日)
  11. だいだいラプソディー/四季桜(1976年6月21日)
バルバルーン名義
  1. バハマ/スターダスト・セレナーデ(1980年5月21日)
  2. ブロークン・ハート/ミスティー・ブルー(1980年11月21日)
ラッキーリップス名義
  1. 黄昏ドライブ・マップ/ NO,NO,NO(1982年8月21日)
復活チューインガム名義
  1. 忘れていたニックネーム/Hello Mr DJ(1983年6月21日)
  2. よりそってめらんこりい/あの日のように(1984年10月21日)

チューインガムのアルバム(LP)

『風と落葉と旅びと/岡田さんの手紙』(1972年10月21日) 

『風と落葉と旅びと/岡田さんの手紙』(1972年10月21日) 

『逃げた小鳥/赤い風船』(1973年7月1日)
『逃げた小鳥/赤い風船』(1973年7月1日)

『クリスマス・ベストヒット』(1974年10月21日)
『クリスマス・ベストヒット』(1974年10月21日)

関連記事とアーティスト

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

感想を追加する


Submit your review
*必須項目です

関連記事

1975 目黒ひとみとは、どのような女性歌手でしょう?目黒ひとみのその後は...口コミ評価を集計しました!

「目黒ひとみ」について

1973 水沢アキ - 娘ごころ

1973 水沢アキ - 娘ごころ

1978~1979 ラブリーズについて

1978~1979 ラブリーズ(Lovelies)について

1967~1972 沢知美について

1967~1972 沢知美(さわともみ)について

1965 ミッチー・サハラについて

1965 ミッチー・サハラについて

1973 里美ゆり について

1973 里美ゆり について