アルマ・コーガン(Alma Cogan)について【イギリス】

アルマ・コーガン(Alma Cogan)について【イギリス】
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1950年代のイギリスを、誰かアーティストに例えるならそれは「アルマ・コーガン(Alma Cogan)」だろう。

「くすくす笑うような声を持つ女の子」というニックネームを付けられた、彼女の明るく元気なイメージは、まさにこの10年間に完璧にフィットしていた。

1960年代もレコーディングを続けたが、いくつか質の高いリリースをしたにも関わらず、彼女はスターたちのパーティホストとして、より有名になった。

アルマ・コーガン(Alma Cogan)の生い立ち

アルマ・コーガンは、1932年5月19日、本名アルマ・コーエン(Alma Cohen)としてロンドン北部のゴルダーズグリーン(Golders Green)に生まれた。

ミーハーな母親によってショービジネスの世界へ入れられた彼女は、16歳の時、カンバーランドホテル(Cumberland Hotel)常駐歌手となる。

そこでパフォーマンスをする間に、EMIのHMVレーベルを経営していたA&R(Artists and Repertoire:アーティストの発掘・育成担当者)のウォリー・リドレー(Wally Ridley)に見初められた。

1950年代

アルマ・コーガンは、1950年に“Red silken stockings”をレコーディングしたが、この曲は代わりに、同じレーベル所属のベティ・ドライバーのバージョンで発売されることに決まった。

リドレーは、ボーカルトレーニングをするよう彼女に言った。2年のレッスンの後、20歳の誕生日に初のディスク“To be worthy of you/Would you?”をリリースした。

彼女の最初のリリースは、特に記憶に残らないようなバラードで、何曲かアップテンポの曲も提供されたのだが、他のアーティストたちから突出することはできなかった。

しかし徐々に、彼女の明るい性格がレコードを通して輝きだし、1953年7月、彼女のトレードマークが確立した。

“If I had a golden umbrella”のレコーディング中、彼女は突然くすくすと笑いだし、これがそのままレコードに残されることになったのだ。しかし彼女が本当にヒットメーカーとなるのは、1954年4月に、4番目のヒットとなる“Bell bottom blues”を発売してからだった。

そしてすぐ、1954年にテレビコマーシャルに出演すると、彼女はテレビスターとしての地位も確立させる。レギュラー番組で彼女は、高価で洗練されたフォーマルガウンとドレスを身にまとっていた。この見た目と、陽気でキャッチーなヒットソングで、1956年から1958年にかけて、NME(New Musical Express)読者たちから、イギリスナンバーワン女性シンガーに投票された。

彼女はイギリスの女性シンガーの中で最も成功したうちのひとりで、1950代に18曲ものヒットを生んだ。 “I can’t tell a waltz from a tango”、“ Dreamboat”(唯一のナンバーワン)、“Never do a tango with an Eskimo”などである。

1960年代

不運なことに、他の同時代のアーティストの多くと同じように、新しい10年の幕開けは彼女にトラブルをもたらした。

“Dream talk”は1960年代初のヒットとなったが、新曲トップ50の48位までにしかならず、一方ポール・アンカ(Paul Anka)作曲の“The train of love”は8月に27位となった。“Just couldn’t resist her with her pocket transistor”はUKチャートで失敗に終わるが、日本のチャートでは、1か月間トップであった。

1961年の始め、彼女は別のEMIレーベルであるコロムビア(Columbia)へ移り、UKでの最後のヒットとなる“Cowboy Jimmy Joe”を発売する。これは4月に37位となった。

彼女の次のシングルは、プロデューサー、ノーマン・ニューウェル(Norman Newell)により作曲された、みずみずしく張りのあるロマンティックな恋愛を歌う、新しいLP『With you in mind』のタイトルトラックと、1918年のヒット“Ja da”のカバー曲が収録された。このシングルは当時の彼女のキャリアになんの影響も与えなかったが、後の曲は最近になって、マーズチョコレートバーのプロモーションで使用されている。

偶然にも、1950年代に彼女自身もこのチョコレートのプロモーションをしている。

1958年に発売された最初のLP『I love to sing』の中で、彼女は昔の曲をうまく表現する才能を示している。1961年の『With you in mind』でも同様で、そのため他の昔の曲も、シングルとして発売されるためレコーディングされることとなった。

しかし、LPが伝統的なアレンジでレコーディングされる一方、シングルは正面から若い世代をターゲットとしていた。

12月に発売された“All alone”は1924年のアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)のカバー曲を、ティーン向けにアレンジしたものである。この事実を知らない人にとっては、この曲が60年代のオリジナルでないとは分からないだろうが。

1962年4月には、彼女はより昔の曲へと戻る。“In the shade of the old apple tree”が最初に登場したのは1905年である。しかしA面にはパッツィー・クライン(Patsy Cline)のその当時のヒット曲“She’s got you”を収録している。

当時のヒット曲をカバーするというスタイルが50年代の主流であったが、60年代になるとそのスタイルは少なくなる。ほとんどのビッグスターたちは、彼ら自身で曲が作れなかったとしても、彼らに合うように作られた曲を歌った。

こういった流れが、アルマ・コーガンを時代錯誤で時代遅れだと感じさせた。

そうは言うものの、彼女は常に時代の先を走っていた。1962年11月に発売された“Goodbye Joe”は「サイケデリック」なサウンドで、これはその5年後のトレンドを予見させている。B面の“I can’t give you anything but love”は最新LP『How about love!』からの1曲で、タイトルに「love」を付けるという、もう1つの流行に準じている。

1963年2月に発売された、エキサイターズ(Exciters)“ Tell him”のカバー曲によって、もう1度チャートへ舞い戻ることを彼女は高く期待していたが、その代わりにティーンのシンガー、ビリー・デイビス(Billie Davis)がそれをやってのけた。

しかしこれはアルマの活動を新しい方向へ向かわせることになる。彼女は日本語やドイツ語の曲をカバーし、国際的なマーケットを獲得しようとしたのだ。B面には“Fly me to the moon”のボサノヴァバージョンを収録。この曲は1961年の彼女のLPに、よりスローテンポでレコーディングされ収録されていたものだ。そしてこれはイスラエルチャートのトップとなった。

彼女はそういった国々でもツアーを行っており、そのため、次のレコードがリリースされたのが9月だったように、リリース期間が7か月も空いてしまった。

1913年のミュージックホールの曲であった“Hold your hand out you naughty boy”は“All alone”のように、リスナーたちが60年代の曲だと思うような、現代風のアレンジがなされた。ビートのブームが高まっており、ピアニストのスタン・フォスター(Stan Foster)と共同作曲したB面の曲“Just once more”は、当時の他のビートソングと同じようにすばらしく、だからこの曲が失敗に終わった理由は依然謎である。

アルマ・コーガンの新しいレコードが発売されるのは、より稀になっていく。

1964年の3月にはキャシー・カービー(Kathy Kirby)がイギリス最大の女性シンガーとなっており、50年代のヒット曲“Secret love”と“Let me go lover”をカバーし、成功を収めていた。両曲ともチャールズ・ブラックウェル(Charles Blackwell)によるアレンジだったので、アルマは彼女の曲“Tennessee waltz”も彼にアレンジしてもらうことを思いつく。

そしてこれはスウェーデンでスマッシュヒットとなり、チャートで5週間トップを記録した。そして一連のドイツ語によるレコードリリースの1枚目としてドイツ語で再レコーディングされ、ドイツでもトップ10に入るヒットとなった。

イギリスへ戻り、彼女はビートルズ(the Beatles)と友人になった。彼らは彼女のケンジントン(Kensington)のアパートをよく訪れており、そこで彼女は有名人たちを招き度々パーティを開いていた。

1964年10月、彼女は新しく作曲した“It’s you”と“I knew right away”で賭けに出た。両曲とも音楽ディレクターのスタン・フォスター(Stan Foster)との共同作曲である。彼女も歌もとてもその時代風で、友人のポール・マッカートニー(Paul McCartney)はB面曲でタンバリンを演奏している。またジョージ・マーティン(George Martin)が制作指揮を執った。この最強の作品がヒットしなかった原因は単純に、彼女の名前がレコード上にあることだったかもしれない。

アルマ・コーガンの次のシングルは1965年の夏に発売され、そして慌ただしくEMIに回収された。ローリング・ストーンズ(Rolling Stones)のマネージャーであるアンドリュー・ルーグ・オールドハム(Andrew Loog Oldham)が、激しい“Now that I’ve found you”と彼自身が作曲した“Love is a word”の両曲ともをプロデュースしていた。

サーチャーズ(Searchers)のクリス・カーティス(Chris Curtis)が彼女の次のシングルを手掛けた。“Snakes and snails”が 8月に発売され、この曲は当時イギリスのトップ女性歌手であったダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)を、ヘヴィーなバッキングボーカルによりフィーチャーしたと思われる。

B面は1962年のフィル・スペクター(Phil Spector)の失敗作“How many nights, how many days”のカバー曲である。A面曲がアルマに合っているかどうかというのは議論の余地があるが、B面曲は、彼女が60年代の真のビートサウンドに簡単にフィットできるという、いい例となった。

11月に、新しいプロデューサーのデヴィッド・グーチ(David Gooch)の下、ペギー・マーチ(Peggy March)の“Let her go”をカバーした。B面は“Yesterday”で、これはポール・マッカートニーが彼女のフラットで初めて演奏したものだ。

両曲とも素晴らしいパフォーマンスだったが、このシングルは回収されてしまう。代わりに、“Eight days a week”(シングルバージョン)と“Help!”の2曲のビートルズのカバーが発売された。多くのディスクジョッキーがこのA面曲を流したが、チャートには載らなかった。

挙句の果てに、EMIは彼女との契約を終えることを決める。

1966年始めまでには、彼女の体調は悪くなっていっており、イギリスツアー中に胃の痛みから倒れてしまった。胃がんの治療を受けた後、仕事を続けることを決め、4月に彼女の人生最後となるUKシングルを発売した。

彼女の名前が成功を妨げる要因となっている可能性を考え、彼女のミドルネームがアンジェラであることから、アンジェラ・アンド・ザ・ファンズ(Angela and the Fans)という名前で、デヴィッド・マッカラム(David McCallum)のテレビ“The man from U.N.C.L.E.”での役に捧げる曲、“Love ya Illya”を発売した。

B面は“I know you”で、両曲ともアルマとスタン・フォスターの作曲である。しかし今回もまた、ラジオの強力なサポートにも関わらず、このディスクはUKチャートトップ50に入ることはできなかった。

3週間の入院生活の後、1966年10月26日にロンドンのミドルセックス(Middlesex)病院で、卵巣がんにより彼女は亡くなった。

デヴィッド・グーチは死後発売するシングルとして、アルマ・コーガン作曲の激しい曲“Now that I’ve found you”(以前のシングルの再発売)と、B面には、60年代にほとんどのアルマのレコーディングを手掛けたノーマン・ニューウェル作曲、プロデュースの“More”を選んだ。

突然の死の直後であったにも関わらず、アルマ・コーガンの人気は再燃しなかった。しかしありがたいことに、死後40年以上に渡り、50年代の彼女へのノスタルジーからたくさんの曲が再発売された。そして、見過ごされてきた彼女の輝かしい60年代の作品の、真価が認めらるようになった。

出典:Ready Steady Girls

アルマ・コーガン(Alma Cogan)について【イギリス】の口コミ

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アルマ・コーガン(Alma Cogan)について【イギリス】のディスコグラフィ

1958年
①I Love To Sing

①I Love To Sing 

1961年
②Alma Sings With You In Mind

②Alma Sings With You In Mind 

1965年

③Alma Cogan
③Alma Cogan

1967年

④Alma
④Alma 

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