アニタ・ハリス(Anita Harris)について【イギリス】

アニタ・ハリス(Anita Harris)について【イギリス】
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「アニタ・ハリス(Anita Harris)」はイギリスのエンターテイナーであり歌手であり、また女優である。

彼女の完璧な母音とクリスタルトーンは、2枚の感傷的で聴きやすいシングル“Just loving you”、“Anniversary waltz”と共に、1960年代にビッグヒットとなった。

テレビや舞台、何本かの映画といった、後のより大きな成功と、さらにオールラウンドのエンターテイナーであるというイメージにより、彼女の初期のレコーディングの深みと質の高さが正しく伝わっていない。

アニタ・ハリス(Anita Harris)の生い立ち

アニタ・ハリスは、1942年6月3日、イギリス南東サマセット州(Somerset)ミッドサマーノートン(Midsomer Norton)に生まれた。彼女はミュージックホールエンターテイナーのイダ・バール(Ida Barr)の姪の娘に当たる。

彼女はプロとしての活動を、8歳の時にアイススケーターとして始めた。シーズン中はナポリやラスベガスで働き、その後ラジオで人気のボーカルハーモニーグループ、クリフ・アダムス・シンガーズ(the Cliff Adams Singers)に参加した。

1961年

1961年、まだティーンだった彼女は最初のソロレコード“I haven’t got you”をパーロフォン(Parlophone)レーベルから発売した。

作曲はジョン・バリー(John Barry)で、彼はボンドのテーマでよく知られている。

彼女はマイク・マルゴリス(Mike Margolis)のオーディションを受け、彼はアニタ・ハリスをマネージメントすることに承諾した。

以来、彼はほぼ独占的に彼女のレコードをプロデュースし、同じように彼女のためにたくさんの曲を書いた。この2人は1973年に結婚する。

1964年

アニタ・ハリスは、マルゴリス作曲の“Lies”レコーディングのため、1964年にヴォーカリオン(Vocalion)レーベルへ参加し、翌年には“Willingly”発売のためデッカ(Decca)レーベルへと移った。

1965年

デッカ所属中、国際的知名度を上げるため、1965年イタリア、サンレモ(San Remo)ソング・フェスティバルに参加し、ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)、キキ・ディー(Kiki Dee)、ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)らと共に登場した。当時は、イタリアのシンガーと海外のシンガーが、お互いのエントリー曲をパフォーマンスし合うスタイルだった。

アニタとイタリアのベッペ・カーディル(Beppe Cardile)は共に優しい曲“L’amore è partito”を歌ったが、その曲は決勝へは進まず、どちらにとってもヒット曲とはならなかった。

その年、パイ(Pye)レーベルへと移り、そこで彼女の音域を披露する4枚のシングルを発売する。憂鬱な曲“I don’t know anymore”に始まり、続いてバート・バカラック(Burt Bacharach)とハル・デヴィッド(Hal David)作曲の2曲“Trains and boats and planes”と“London life”が1965年に発売された。

ストンピーな曲“Something must be done”が1966年最初の彼女のシングルとして発売され、ファンのお気に入りの1曲となった。
パイでのレコードはチャートには入らなかったが、確実に彼女への関心を集め、後の1968年初めにマーブル・アーチ・レコード(Marble Arch Records)から発売された、多彩で奇抜で活気のある、セルフタイトルアルバムに組み込まれた。

1966年

1966年にアニタ・ハリスは、CBSレーベルとの契約を結び、そこで1970年代初めまでの間、多くの作品をレコーディングした。

彼女が初めて発売したアルバムは、最も成功した作品となった。この『Somebody’s in my orchard』は、美しくテーマ付け、プロデュースされており、1966年のミュージック・クリティックス(the Music Critics)のアルバム・オブ・ザ・イヤー(Album of the Year)を勝ち取った。彼女のボーカルは荘厳で、デヴィッド・ウィテカー(David Whitaker)の編曲により完璧な作品となっている。

彼はその後彼女にとっての頼みの綱となる。“A taste of honey”“ Watermelon man”“ Cherry ripe”“ Lullaby of the leaves”“ Oranges and lemons”、そしてタイトルトラックから成る彼女の最高傑作は、陽気で挑発的でそしてドラマティックだ。

驚くことに、このアルバムからはどの曲もシングルカットされなかった。

この優れた技術は、楽し気なテーマのEP『Nursery rhymes for our times』でも継続した。これは4曲編成のミニLPで、大人たちのための現代版童話である。今やレアなコレクターアイテムである、ビートルズ(the Beatles)の“Eleanor Rigby”とシェール(Cher)の“Bang bang”のカバーと、2曲のオリジナル、“Old Queenie Cole”と優れたジャズナンバーの“B.A.D for me”から成っている。

1967年

1967年に、トム・スプリングフィールド(Tom Springfield)が妹ダスティ(Dusty)の提案で作曲した“Just loving you”により大きな売り上げに成功した。

このリリースはUKトップ40の6位を記録し、2枚のゴールドディスクを獲得し、1年以上チャートに入り続けた。

続く“The playground”はトップ40からは惜しくも漏れてしまったものの、ノーザンソウルのダンスフロアを盛り上げた。“Anniversary waltz”は1968年初めに21位となった。この曲はアニタの2番目のヒット曲となる。

この3曲はすべて1967年に発売されたアルバム『Just loving you』に収録された。

他にも、ドラマティックな“Crying for the near”、ビートルズメドレー、思いがけずクラシックの才能を示すこととなる、洗練された“Ave Maria”が収録され、このアルバムは世界中に最も売れた彼女の作品となる。

映画「キャリー・オン・フィルム」シリーズの2作品“Carry on doctor”と“Follow that camel”での生意気な役で、彼女のスターとしての地位は強固なものとなった。彼女の姿はラジオやテレビ、映画や劇場に溢れた。しかしチャート上では中間派となり、そこから二度と方向転換することはなかった。

1968年

1968年に、彼女とママス・アンド・パパス(the Mamas and the Papas)は2組とも、1930年代の“Dream a little dream of me”のカバーをリリースすることになった。

この曲によりママ・キャス(Mama Cass)はソロ活動を始めるが、アニタの曲は依然UKチャートトップ40圏外だった。

同じ年の終わりに発売されたシングル“Le blon”は、魅力的なB面“Dusty road”と共に彼女の最大ヒットのひとつと位置付けられている。チャートからはまったく外れてしまってはいたが。

1969年

しかし、1969年のLP『Cuddly toy』は雑多な作品となった。

“River deep, mountain high”のカバーは音が合っていないようだし、ビートルズ“Hey Jude”の興味をそそるカバーは、リュートで始まりブラスバンドのクレッシェンドの爆発で終わるという実験的な曲となっている。おそらく分かるだろうが、どの曲もシングルカットされなかった。

続くシングル“We’re going on a tuppenny bus ride”と“Loving you”で、彼女はバカラックとデヴィッドの曲に戻る。“I’ll never fall in love again”は彼女の60年代最後のシングルとなった。

1970年代

1970年に、アニタ・ハリスは執筆活動、プロデュース業、また子供向けテレビ番組“Jumbleland”への出演に乗り出した。

続いてアルバム『Anita in Jumbleland』が発売され、これはCBSからの最後の作品となる。

彼女はデヴィッド・ニクソン(David Nixon)のテレビ番組“Magic box”にレギュラー出演し、またマーカム・アンド・ワイズ(and Bruce Forsyth)やブルース・フォーサイス(Bruce Forsyth)といったコメディアンの番組や、同様に“Royal variety performance”やロンドンのナイトクラブ「 Talk of the town」にゲスト出演した。

ロングラン舞台のピーターパン役の後1974年に子供の歌のアルバム『Anita is Peter』がゴールデン・アワー(the Golden Hour)レーベルから発売された。

1976年にアルバム『Love to sing』をワーウィック(Warwick)レーベルから発売し、大人向けの仕事へ戻ったが、このアルバムはカバー曲と再レコーディング曲、1つの新曲から成る、冴えない作品となった。

1977年の『The best of Anita Harris』は昔の形に戻っており、“The look of love”を含む新曲7曲と、他にカバー曲が収録されている。

彼女はさらに時々数枚のシングルをその後数年間レコーディングし続けたが、主にはノベルティやチャリティとしてであり、1984年が最後となった。

1980年代

1980年代、彼女は2年公演のアンドリュー・ロイド・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)の“Cats”出演を満喫し、パントマイマーであり、国際的キャバレーのアトラクションであり続けた。

1990年代以降、仕事は減少していくが、彼女は地方の劇場ツアーを続け、キャバレーにも時々登場した。またフィットネスと料理のビデオ“Fizzical!”を発売した。

長いブランクの後、1966年に新しいアルバム『Everyday valentine』をレコーディングした。このアルバムには以前のヒット曲と、『The best』の新曲すべて、そして9曲の新曲が収録された。

別のアルバム『A taste of honey』も同じ年に発売され、これにはLP“Something’s in my orchard”と“Jumbleland”のほとんどの曲と、2曲の新曲が収録された。

1990年代

彼女はまた1997年に4面の『Leading ladies』を発売した。

4人の女性によるこのCDは、若いミュージカルステージのスターたちだけでなく、アニタと彼女の確立した功績も披露している。

プライベートな内容としては、彼女の人生はいくつかの失敗により破滅的だった。彼女と夫は、1985年のスイス銀行崩壊により生涯の蓄えを失った。

2009年、彼らが自宅を追い出され、友人宅の空き部屋に住んでいるというニュースが報じられた。

この夫婦は、アニタの活動を再開させようと目論んだテレビのパイロット版に多くの費用をつぎ込んだ後、多額の借金を負った。クリスマスアルバム発売も計画されたが、成果は得られなかった。

全盛期、アニタ・ハリスは8枚のトップシングルと4枚のチャートアルバムを発売し、ステージやテレビの仕事でも数多くの賞を獲得した。

雑誌「Mayfair」でヌードになったこともあったが、彼女はあるいは不当に、甘ったるく古臭いイギリスのパフォーマーというレッテルを貼られていたが、しかしおそらく、他の同時代のより高く評価されているパフォーマーたちよりも、多才であっただろう。

出典:Ready Steady Girls

アニタ・ハリス(Anita Harris)について【イギリス】の口コミ

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アニタ・ハリス(Anita Harris)について【イギリス】のディスコグラフィ

1966年
①Somebody's In My Orchard

①Somebody’s In My Orchard 

1967年

②Just Loving You
②Just Loving You

1968年

③Anita Harris ‎(LP)
③Anita Harris ‎(LP)

1969年

④Cuddly Toy ‎(LP, Album)
④Cuddly Toy ‎(LP, Album)

1970年

⑤Anita Harris, The David Whitaker Orchestra* - Anita Harris Sings Songs From The Thames Television Series Anita In Jumbleland ‎(LP)
⑤Anita Harris, The David Whitaker Orchestra* – Anita Harris Sings Songs From The Thames Television Series Anita In Jumbleland ‎(LP) 

1976年

⑥Love To Sing ‎(LP)
⑥Love To Sing ‎(LP)

1979年

⑦Feelings ‎(LP, Album)
⑦Feelings ‎(LP, Album) 

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