ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)について【イギリス】

ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)について【イギリス】
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ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)は、1960年代のイギリスで最も成功した女性歌手のひとりであり、彼女のレパートリーは熱のこもったポップスから、感情的なソウルバラードまでと幅広い。

洗練されたウィッグとパンダ目のメイクアップで知られる彼女は、キャンプスタイルの象徴のような存在になったが、おそらくイギリスがかつて生み出した歌手の中で、最高のひとりと言えるだろう。

ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)の生い立ち

ダスティ・スプリングフイールドは、1939年4月16日、本名メアリー・オブライエン(West Hampstead)として、ロンドンのウエスト・ハムステッド(West Hampstead)に生まれ、バッキンガムシャー(Buckinghamshire)のハイ・ウィカム(High Wycombe)で育つ。子供の頃にダスティというニックネームを付けられる。

1958年 18~19歳のころ

1958年にグループ「ラナ・シスターズ(The Lana Sisters)」に参加し、その後2年間で何枚かのシングルを発売する。

1960年 20~21歳のころ

1960年にグループを去ると、後にトム・スプリングフィールド(Tom Springfield)と改名する兄のディオン(Dion)と、ティム・フィールド(Tim Field)と共にフォークトリオ「ザ・スプリングフィールズ(The Springfields)」を結成する。

このために、彼女はダスティ・スプリングフイールドという名前を取り入れた。ちなみにダスティの抜けた「ラナ・シスターズ」は後に「シャンテルズ(The Chantelles)」となる。

1961~1963年  21~23歳のころ

「ザ・スプリングフィールズ」は、1961年の“Breakaway”と“Bambino”、そして1962年の“Island of dreams”といった、いくつかのヒットをイギリスで記録する。また“Silver threads and golden needles”では、アメリカでも成功を収める。

しかし、アルバムレコーディングのためにナッシュビル(Nashville)へ向かう途中に立ち寄ったニューヨークで、彼女は初めてグループ「エキサイターズ(The Exciters)」の“Tell him”を耳にする。

1963年 23~24歳のころ

彼女はアメリカンソウルのサウンドにすっかり魅了され、すぐに音楽の方向性を変えたいという強い思いでいっぱいとなり、1963年秋にグループを脱退する。

1963年11月に発売されたファーストソロ“I only want to be with you”は、彼女が「ザ・スプリングフィールズ」時代にレコーディングしていたものとは全く異なる作品であった。

元気のいい見事なこの曲は、イギリスチャートを一気に駆け上がり、4位に到達した。B面の“Once upon a time”では、彼女の作曲スキルも示している。すぐ続いて似たような“Stay awhile”が発売され、イギリスで13位となった。これはファーストソロヒットと同様に、マイク・ホーカー(Mike Hawker)とアイヴォー・レイモンド(Ivor Raymonde)による作曲である。

当時、シラ・ブラック(Cilla Black)が、アメリカのソングライター、バート・バカラック(Burt Bacharach)とハル・デヴィッド(Hal David)による曲でナンバーワンヒットを出していた。

1964年 24~25歳のころ

ダスティ・スプリングフィールドは3枚目のシングルとして、彼らの過去の曲で、元々トミー・ハント(Tommy Hunt)によりレコーディングされた、あまり有名ではない曲のカバーを選んだ。それが、感情的な“I just don’t know what to do with myself”で、1964年夏にイギリスチャート3位を記録し、彼女のその後の多くの作品の、基準となる曲となった。

ダスティのファーストLP『A girl called Dusty』もまた、彼女のアメリカ音楽への愛を示している。レスリー・ゴーア(Lesley Gore)の“You don’t own me”からグループ「シュレルズ(The Shirelles)」の“Mama said”まで、このアルバムには選ばれたカバー曲が詰まっている。

ちなみに彼女のアメリカンソウルへの愛は、イギリスでレコード会社「Motown」をブレイクさせることへもつながる。彼女が司会を務める最高の音楽番組『Ready, steady, go!』のスペシャルエディションをレコーディングするよう、テレビ会社「Rediffusion」に勧めた。

この頃までには、彼女はイタリアのコンテスト『San Remo song festival』に出場し、たくさんのシングルをフランス、ドイツ、イタリアで発売し、ヨーロッパ各地で知られるようになっていた。

サンディ・ショウ(Sandie Shaw)やペトゥラ・クラーク(Petula Clark)といった同時代の歌手たちのように、ダスティはヨーロッパ本土では成功しなかったが、彼女のヒット曲の多くは、本土の歌手たちに母国語でカバーされた。

イギリスでの彼女の次の45レコードは“Losing you”で、これは兄のトムがクライブ・ウェストレイク(Clive Westlake)と共に作曲したものだ。このバラードはその年の秋にイギリスチャートトップ10入りを果たす。

1965年 25~26歳のころ

続く“Your hurtin’ kinda love”が、1965年2月にかろうじてトップ40に滑り込む結果に終わると、ダスティ・スプリングフィールドは素早く強烈な“In the middle of nowhere”で持ち直した。これは彼女が、確実に返り咲くための曲を見つける旅で、ニューヨークで耳にした曲だった。彼女の本能は正しく、この曲で再びトップ10入りするヒットを記録した。

ひとつのサウンドに留まりたくはなかった彼女は、続いてアメリカのソングライターコンビ、ジェリー・ゴフィン(Gerry Goffin)とキャロル・キング(Carole King)作曲の、豊かなオーケストラの“Some of your lovin’”を発売した。1965年9月に発売されたこの曲は、彼女のベスト作品のひとつと考えられており、これもまたトップ10入りを果たした。

1966年 26~27歳のころ

ファンはアップビートの曲を望んでいると判断し、1966年1月に“Little by little”を発売した。

これは明らかに“In the middle of nowhere”ののびのびとしたサウンドを意識しており、同じ作曲家により作曲された。もしこの曲によりダスティを世間の注目の下に置き続けることを意図していたなら、その目論見は成功した。これはトップ20入りするヒットとなった。

常に完璧主義なダスティは、決して特定の曲を気に入ったりはせず、だから次の曲には、何か特別なものを選ぶ必要があると知っていた。

彼女は前年に参加したコンテスト『San Remo song festival』を思い出した。そこで彼女はピノ・ドナッジオ(Pino Donaggio)が作曲、パフォーマンスした“Io che non vivo (senza te)”に恋をし、これを持ち帰ったが、それまで何もしていなかったのだ。新しい歌詞(スタジオへ向かうタクシーの中で書かれたと言われてきたが、現在では否定されている)で、“You don’t have to say you love me”となり1966年4月に発売されたこの曲は、ダスティのイギリス唯一のチャートトップ曲となり、現在では古典的であると考えられている。

続いてその年の夏に発売された“Goin’ back”は挑戦的であったが、非常に美しく、これもまたトップ10入りする成功を収めた。ちなみに興味深いことに、ダスティ・スプリングフィールドは当時作曲も続けており、このシングルB面の“I’m gonna leave you”のメロディを作曲した。

8月になると、彼女は自身のテレビシリーズ『Dusty』の司会を務めるようになる。この番組は2シーズンに渡り放送され、彼女に世間の目を向け続けさせる助けとなった。ウィッグとドレスなしの彼女は非常にシャイで、不安定な気持ちに苦しんだ。自分がレズビアンであることを世間に隠しているということも、彼女の苦痛をさらに増やしていた。

シングルの話に戻ると、ドラマティックでイタリア風の、クライブ・ウェストレイク作曲“All I see is you”と、熱のこもった“I’ll try anything”がまたしてもヒットとなった。
しかし、次の2枚の45レコードにより、ダスティは思い悩んでしまうこととなる。

1枚目の“Give me time”は、再びドラマティックなイタリア曲のカバーであったが、トップ20入りを逃してしまう。ちなみに、なぜこれより優れた、映画『Casino royale』からの“The look of love”がB面となってしまったのかは誰にもわからない。

2枚目はダンサブルな“What’s it gonna be”で、これはアメリカの歌手スーザン・バラット(Susan Barratt)のあまり有名ではない曲のカバーだが、これはトップ40に入ることさえできなかった。しかしちなみにこの曲は、後にイギリスのノーザンソウルシーンでのお気に入りとなる。

この状況にふさわしいタイトルのアルバム『Where am I going?』(私はどこへ向かっているの?)は、ダスティがもがき苦しんでいるのをはっきり示すこととなった。

いくらかパニックに陥り、彼女は再び大きなヒットを出すための曲を必死に探した。

1968年 28~29歳のころ

ソングライターのクライブ・ウェストレイクが、“I close my eyes and count to ten”で彼女を救った。しばしばダスティのバックボーカルを務めていたキキ・ディー(Kiki Dee)がこの曲を発売する予定だったのだが、ダスティ・スプリングフィールドは自分が代わりに歌いたいとウェストレイクに電話し主張した。

この曲が1968年7月に4位となり、ダスティはチャートへ復活することができた。そしてこれは彼女の作品の中で、最も愛されるヒット曲のひとつとなっている。ちなみにB面の“No stranger am I”は、ダスティの当時の恋人、ノルマ・タネガ(Norma Tanega)による作曲である。

残念ながら、続くウェストレイクの“I will come to you”は2流の作品で、成功を繰り返すことはできなかった。

チャンスを求め、ダスティ・スプリングフィールドはアルバムレコーディングのためテネシー州(Tennessee)のメンフィス(Memphis)へ向かった。しかし彼女はメンフィスのミュージシャンたちに非常に怯えてしまったので、主要ボーカルは実際ニューヨークで後日レコーディングされた。それにも関わらず、アルバムの1曲目の素晴らしい“Son-of-a preacher man”は、ヨーロッパでもアメリカでも、トップ10入りするヒットとなった。

現在では一流と考えられているが、アルバム『Dusty in Memphis』は驚くべきことに当時成功しなかった。そしてレコード会社「Philips」は、イギリスでそれ以上このアルバムからシングルを発売しなかった。

1968年 29~30歳のころ

その代わり、翌年“Am I the same girl”が発売されたが、ダスティに対する関心はすでに弱まっており、トップ40にすら入らなかった。

これはダスティ・スプリングフィールドにはふさわしくない60年代の締めくくりだった。

1970年代、その後…

1970年代にもたくさんのシングルとアルバムを発売するが、どれも大きな成功を収めることはできなかった。

次に彼女がチャート上へと復活するのは、1987年にエレクトロニックデュオの「ペット・ショップ・ボーイズ(Pet Shop Boys)」とチームを組んだ時だった。

“What have I done to deserve this”がイギリスとアメリカで2位となり、ヨーロッパ本土でも大きなヒットとなった。

これにより、“Nothing has been proved”(映画『Scandal』のテーマ曲)、や“In private”といった続くシングル、そしていくつかのアルバムもヒットとなった。

1994年、ダスティ・スプリングフィールドは乳がんと診断され、1999年3月2日、この病によりこの世を去った。

出典:Ready Steady Girls

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ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)のディスコグラフィ

ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)のアルバム(LP)

ダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)のアルバム(LP)
  1. Dusty 1964
  2. Stay Awhile – I Only Want To Be With You 1964
  3. A Girl Called Dusty 1964
  4. Ev’rything’s Coming Up Dusty  1965
  5. Ooooooweeee!!!  1965
  6. You Don’t Have To Say You Love Me 1966
  7. Dusty Springfield’s Golden Hits   17 versions Philips 1966 The Look Of Love  1967
  8. Where Am I Going 1967
  9. Dusty … Definitely 1968
  10. Dusty In Memphis 1969
  11. Dusty Springfield / Led Zeppelin – Promotional LP For Record Department-In-Store-Play ‎(LP, Promo, Smplr)  1969
  12. A Brand New Me 1970
  13. See All Her Faces 1972
  14. Michel Legrand Orchestra* Featuring Dusty Springfield, Matt Monro, Michel Legrand – Time For Loving 1973
  15. Cameo 1973
  16. Sings Burt Bacharach And Carole King   5 versions Philips 1975 It Begins Again 1978
  17. Living Without Your Love 1978
  18. White Heat 1982
  19. Reputation 1990
  20. A Very Fine Love 1995
  21. The BBC Sessions ‎(CD, Album) Zone Records (7) 1999
  22. Good Times (The Best Of Dusty Springfield’s BBC TV Performances 1966 – 1979) ‎(2xCD, Album) Zone Records (7),  2001
  23. Live At The Royal Albert Hall  2005

 

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