ジャッキー・トレント(Jackie Trent)について【イギリス】

ジャッキー・トレント(Jackie Trent)について【イギリス】
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イギリスの歌手「ジャッキー・トレント(Jackie Trent)」は、1965年に“Where are you now (my love)”でイギリスチャートのトップとなったにも関わらず、作曲家であるボーイフレンド(後に夫となる)トニー・ハッチ(Tony Hatch)の作詞家としての仕事のため、しばしば自身のレコーディング活動か、ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)らへの作品提供かという選択に迫られた。

1960~1970年代イギリスの女性歌手

ジャッキー・トレント(Jackie Trent)のバイオグラフィ

ジャッキー・トレントは、1940年9月6日、本名イヴォンネ・バージェス(Yvonne Burgess)として、イギリスのウェストミッドランド州(West Midlands)のニューカッスル=アンダー=ライム(Newcastle-under-Lyme)に生まれる。

幼い頃から、天性の音楽の才能を見せた。例えば、楽譜を見ずに聴いた曲を弾くことができたので、ピアノのレッスンを3回受けた後に辞めたりした。

彼女が初めて舞台に立ったのは、まだジュニアスクール(7歳から11歳の児童が通う)に通っている頃で、ストーク=オン=トレント(Stoke-on-Trent)近郊で行われた作品『Babes in the woods』だった。

11歳の彼女は、地域の社交クラブでパフォーマンスを行うセミプロとなった。しばらくの間、ステージネームとしてジャッキー・トレメイン(Jackie Tremayne)を使うが(おそらく誰も「イヴォンネ」という名前を発音できなかったからだろう)、14歳の時に、地元の川にちなんだジャッキー・トレントへと改名した。

1955年 14歳~15歳のころ

1955年にロンドン(London)へと向かい、力強いボーカルにより、ヨーロッパ全土の英国軍人駐留所で歌う仕事を得る。

1962年 21歳~22歳のころ

ここで得た経験が実を結び、1962年にレコード会社「Oriole」から契約のオファーを受けた。ここから彼女は2枚のシングル、“Pick up the pieces”と“The one who really loves you”を発売。

1963年 22歳~23歳のころ

どちらもヒットとはならず、1963年にレコード会社「Pye」の支流である「Piccadilly」へと移り、その年の5月、この会社からのデビュー作として“Melancholy me”が発売された。彼女はこの曲には否定的であるし、確かに歌詞と陽気な曲調とが調和していないが、それでもある種の魅力がある曲。

1964年 24歳~25歳のころ

続くシングルとして、フィル・スペクター(Phil Spector)のサウンドとエディット・ピアフ(dith Piaf)の曲“Hymne à l’amour”という、ありそうもない組み合わせが選ばれた。

だが1964年初期に発売されたこの曲“If you love me”は素晴らしい作品で、ファンのお気に入りとなっている。B面の “Only one such as you”もまた評判がよい。これは、クリス・アンドリュース(Chris Andrews)の作曲で、彼はサンディ・ショウ(Sandie Shaw)のほとんどのヒットの立役者である。

続いてその年に発売された2曲“Autumn leaves”と“I heard somebody say”もまた、フランス語オリジナルのものだった。ちなみに“I heard somebody say”はイエイエガールのシルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan)もレコーディングを行った。どちらのシングルも「Pye」から発売され、1960年代の残りと70年代の初めにかけて、ジャッキーはこのレコード会社に留まった。

この頃にはジャッキー・トレントは、自分が歌手だけでは終わらないと証明するのに熱心だった。

幼い頃から詞を書いており、年を重ねるごとに進化を続け、歌詞を書くようになった。1964年最後のリリースとなる“Don’t stand in my way”は、彼女が「Pye」のプロデューサー兼A&R(アーティストの発掘・契約・育成、楽曲の発掘・契約・制作を担当する)のトニー・ハッチとコラボレーションした曲がA面となった初めての作品だ。

このふたりはその後、たくさんのヒットを共に作り出すことになる。

そして恋愛関係にも発展する。このことに、ハッチが当時手掛けていたペトゥラ・クラークは納得ができなかった。ハッチは当時結婚しており、ペトゥラは彼の妻と親しかったのだ。ジャッキー・トレントの生意気な性格もまた、このスターと、そして特に彼女の夫の気に障った。しかし最終的にはジャッキーとペトゥラは親しくなり、その関係は現在も続いている。

1965年 25歳~26歳のころ

ハッチは1965年のテレビシリーズ『Granada』でフィーチャーされる曲を書く依頼を受け、ジャッキーにその曲の詞を書くように頼んだ。それを彼女がレコーディングした“Where are you now (my love)”が、その年の5月にイギリスチャートのトップとなった。しかし、この曲はティーン市場をターゲットにしてはなかったので、ジャッキーは中間派の歌手という評価を受けた。

続いて似たようなサウンドの“When summertime is over”が、その年の7月にトップ40入りするヒットとなり、また“Fly me to the moon”や、ロジャース(Rodgers)とハート(Hart)の“Little girl blue”などを収録したアルバム『The magic of Jackie Trent』が発売され、ジャッキーに対するこの評価を確実なものにした。

1966年 26歳~27歳のころ

しかし、もし1965年10月に発売された“It’s all in the way you look at life”が、音楽的になにか新しい出発点だったとするなら、1966年1月に発売された、グループ「ザ・ロネッツ(The Ronettes)」のカバー“You baby”は、物事に勢いをつけた作品だった。

この曲はノーザンソウルダンスシーンで永続的な人気となっているが、当時は大失敗に終わった。B面の“Send her away”もまた同じくらい人気で、この曲はドイツ市場向けに“Alles okay”としてもレコーディングされ、これはジャッキー唯一のドイツ語リリース“Bye bye my love (Auf wiedersehn)”のB面曲となった。

続いてその年の3月に発売された“Love is me, love is you”もまた、ダンスフロアで人気となった。これはジャッキーとハッチのコンビによる作曲で、ビッグヒットとなってもおかしくなかった。しかし残念ながら、これがジャッキー最後のビートサウンドとなった。ちなみにこの曲は、トゥルーリー・スミス(Truly Smith)もレコーディングを行った。

1966年の夏、ジャッキーとハッチが元々はジャック・ジョーンズ(Jack Jones)のために作った“If you ever leave me”がシングルとして発売された。B面は、ペトゥラ・クラークが作曲を手伝ったフランスの曲で、精力的なパフォーマンスの“There goes my love, there goes my life”だ。

ジャッキー・トレントがペトゥラのカバー曲を、ジャッキー自身のキャリアが沈みかけている時に発売したというのは皮肉なものだった。ジャッキーはペトゥラに、自分のベスト作品のほとんどを提供していたからだ。例えば“I couldn’t live without your love”は、元々ジャッキーのシングルとして予定されていたが、代わりにペトゥラがレコーディングし、国際的なビッグヒットとなった。

1967年 27歳~28歳のころ

シラ・ブラック(Cilla Black)やダスティ・スプリングフイールド(Dusty Springfield)がイタリア語オリジナルの曲で大きなヒットを出していたので、ジャッキーとハッチもイタリア風のバラード“Open your heart”を作り、これが1967年1月に発売された。

ちなみにこの曲はイタリア語バージョン“Il mondo degli altri”としても発売された。

オリジナルはLP『Once more with feeling』にも収録された。このLPで注目すべきは、キャッチーな“Take me away”と、ヴァン・マッコイ(Van McCoy)作曲のドラマチックな“Either way I lose”(元々はグループ「グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス(Gladys Knight and the Pips)」の作品)である。

1967年3月、キャット・スティーヴンス(Cat Stevens)“ Humming bird”の信頼性のあるカバー曲を発売し、その年の終わりには再びクリス・アンドリュース作曲の“That’s you”をシングルとして発売した。続いてアルバム『Stop me and buy one』も店頭に並んだ。

1967年8月、ジャッキーとハッチはロンドンのケンジントン(Kensington)で結婚した。自分たちを「音楽夫婦(Mr and Mrs Music)」と名付け、翌年テレビ局「Yorkshire」のスペシャル番組を主催し、その後、オーストラリアでチャートトップとなった“The two of us”など、デュオでのレコーディングを始めた。

1968年 28歳~29歳のころ

ソロ活動としては、ジャッキーは中間派を突き進み、1968年にシングル“With every little tear”と“Hollywood”(B面の“7.10 to suburbia”がファンのお気に入り)を発売した。

アルバム『The look of love』からの“I’ll be there”で、3度目、そして最後となるトップ40入りするヒットを記録した。

1970年代、その後…

その後、主演ネル・グウィン(Nell Gwynn)役を務めるミュージカル『Nell』のツアーを始めた。その後もステージ活動は続き、ジャッキーとハッチが楽譜を書いた1973年の『The card』とその翌年の『Rock nativity』にも出演した。この期間、レコード活動は断続的だった。

1978年、彼女たちはアイルランドへ移り4年間を過ごし、2つのテレビ番組を主催した。その後オーストラリアへと向かう。彼女たちは13年間この地球の裏側に留まり、この間に最も有名な曲、ソープオペラ(連続メロドラマ)のテーマ曲“Neighbours”を作った。

1992年、夫婦は「British Society of Songwriters, Composers and Authors」により、イギリス音楽に貢献したとして賞を受けた。

1995年に夫婦は別れ、ジャッキー・トレントはミュージカル『High society』のツアーでイギリスのステージへと戻った。

2001年に離婚が認められ、4年後にジャッキーはコリン・グレゴリー(Colin Gregory)と再婚した。

悲しいことに、2015年3月、ジャッキーはこの世を去った。

出典:Ready Steady Girls

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ジャッキー・トレント(Jackie Trent)のディスコグラフィ

ジャッキー・トレント(Jackie Trent)のアルバム(LP)

ジャッキー・トレント(Jackie Trent)のアルバム(LP)
  1. 『Yesterdays 』 1965
  2. 『The Magic Of Jackie Trent ‎』 1965
  3. 『Stop Me And Buy One』 1967
  4. 『Jackie Trent with The Tony Hatch Orchestra – Once More With Feeling ‎』1967
  5. 『Jackie Trent With The Tony Hatch Orchestra – The Look Of Love 』‎1969
  6. 『Can’t Give It Up ‎』 1975

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