ダニエラ(Daniela)について【ドイツ】

ダニエラ(Daniela)について【ドイツ】
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ドイツを拠点に活動したポップスターのダニエラ(Daniela)は、様々な角度から、また少なくとも5か国語を駆使してチャートに上ろうとしたが、成功を手にすることはできなかった。

1969年のコンテスト『Schlager-Wettbewerb』に参加するも、若いダニエラをドイツチャート入りさせることはできなかったのだ。

ダニエラ(Daniela)の生い立ち

ダニエラは、1949年12月13日、本名ダニカ・ダニエラ・ミラトビッチ(Danica Daniela Milatovic)として、ミュンヘン(Munich)に生まれる。彼女の家族はモンテネグロ、つまりユーゴスラビアの一部に起源を持つ。

子供の頃、ダニエラはピアノとギターを習う。彼女はいくつかのアマチュアの音楽コンテストに参加したり、ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)の映画にちょっとした役で出演したり、有名ではないがユーゴスラビアのレコード会社から童謡のシングルを発売したりした。

1965年 15歳のころ

野心を持ったティーンのダニエラは、1965年にレコード会社「Philips」と契約を結び、そこから彼女のドイツでのレコーディング活動が始まった。

他の多くのドイツの大手レコード会社と同様に、「Philips」はよく機能したシュラガー(ドイツ語ポップス)の組織であり、絶えず若く才能ある人材を雇い、特に彼らに投資することなく、作品を歌わせていた。

その後3年間に渡り、当時まだ学生であったダニエラはこのレコード会社から3枚のシングルを発売したが、どれも注目を浴びなかった。

最初の試みである、ルディ・バウアー(Rudi Bauer)の陽気な作品“Denk noch mal darüber nach”は、彼女のソフトな歌声には合っていなかった。

バウアーはまた、失恋バラード“Ein wunderbarer Sommer”もプロデュースし、これはおそらく「Philips」でのダニエラのベスト作品であるが、あいにく2枚目のシングルのB面となってしまった。そのA面は平凡なシュラガー“Das ist wie ein Paukenschlag”である。

1967年 17歳のころ

1967年に発売された3枚目のシングルも、似たようなシュラガーの“Schmück dich nicht mit fremden Federn”で、この発売後、レコード会社との契約は終了した。

ダニエラは短い期間、ルーツへと戻り、ユーゴスラビアで地元のビートバンド「Plamenih Pet」と共に4曲入りのEPを2枚レコーディングした。

ガレージファンたちから非常に人気のあるこの2枚のEPは、上品なドイツでの作品とは真逆のスタイルである。

その中で注目すべきは、ナンシー・シナトラ(Nancy Sinatra)“ These boots are made for walkin’”と、「ビートルズ(The Beatles)」“Things we said today” の粗いカバー曲、そしてシルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan)“ Ce jour-là”の翻訳版“Danas je divan dan”である。

ドイツへと戻ると、ダニエラは新しい指導者を見つける。尊敬できる作曲家、指揮者、そして旧ユーゴスラビアの仲間、ボリス・ジョジック(Boris Jojic)である。彼は彼女に可能性を感じ、アルバム制作へと動き出した。

ジョジックは彼女のために、ビートの要素とフランスのシャンソンの要素を持つ、より洗練されたサウンドスケープ(音景)を作り上げた。完成したアルバムで彼女は、英語、フランス語、ドイツ語の3か国語で歌っている。

エリック・シャーデン(Eric Charden)やミキ・ダロン(Miki Dallon)が作曲を手掛け、またダニエラ自身もいくつかの曲を作曲、もしくは共同作曲した。エリック・シャーデンのバラード“Le monde est gris”のカバーと、ジャジーな“The dreaming room”、そしてアップビートのドイツ語曲“Ich bin wie Wachs in deiner Hand”が、このアルバムでのベストである。

しかし、当時彼女はどこの大手レコード会社とも契約することができず、このLPは結局、イタリア拠点の無名のレコード会社「Vibraton」から発売されることとなった。言うまでもなく、この傑作LPは日の目を見ず消えてしまう。

このLPが彼女の活動に何か影響を及ぼしたことがあるとするなら、それはレコード会社「Ariola」と契約する助けになったということだろう。

この会社からのファーストリリースは、先に発売されたLPの曲“Le monde est gris”のドイツ語バージョン“Die Welt ist leer, die Welt ist grau”である。しかし残念ながらこれにも、「die Welt(世界)」は関心を払わなかった。

シュラガーの作曲家ハンズ・ブルーム(Hans Blum)が、より商業的な作品を作るために参加するが、彼女の次のシングルであるセンチメンタルな“Die Tränen der ersten Liebe”もまた、前作と同じような結果となってしまう。

1969年 19歳のころ

1969年には「Ariola」はヒットが欲しくてたまらず、テレビ出演のチャンスを得るため、ダニエラを悪名高いコンテスト『German Schlager-Wettbewerb』にエントリーさせた。

ハンズ・ブルームは、前年にヴェンケ・ミューレ(Wencke Myhre)の“ Beiss nicht gleich in jeden Apfel”と、シュー・マルムクヴィスト(Siw Malmkvist)の“Harlekin”でこのコンテストを勝ち取っており、彼がダニエラのエントリー曲を手掛けることとなった。

しかし、その“Warum denn gleich auf’s Ganze geh’n?”は、いくらか低俗で単調なシュラガーで、ヴェンケ・ミューレであれば生き生きと歌いこなせたかもしれないが、ダニエラの限られたボーカル能力には合っていなかった。

彼女のパフォーマンスは危なっかしく、ライブパフォーマンスの経験不足を露呈することとなった。ダニエラは容赦なく最下位となり、「Ariola」は彼女との契約を更新しなかった。

当時まだ19歳だった彼女に、今度はドイツの映画音楽作曲家、エリック・フェルストール(Erich Ferstl)が、彼がオーケストラのために準備していたラテン風のアルバムの曲に、彼女のボーカルを使いたいと依頼をした。

ちなみに彼はこのプロジェクトのために、より国際的なカルロス・フェンデイラ(Carlos Fendeira)という名前を使った。彼は、ダニエラを黒人アメリカ人歌手、アン・ヘルストーン(Ann Helstone)とチームを組ませ、デュオ「ダニエラとアン(Daniela und Ann)」を結成した。

この結果出来上がったのが、ラテンラウンジポップス界の真に時代を超越する作品、明白なタイトルの『Samba-soul-beat in black & white』である。

英語と、いくつかはスペイン語で歌われたこのLPは、ダニエラが、優しいアスラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto)スタイルのボーカリストであるという強みを明らかにした。
この中で注目すべき曲は、物思いに沈んだような“Life is nothing but a dream”と、緻密なボサノバの“A man and his girlfriend”である。

しかし、歴史は繰り返されてしまう。

フェルストールはレコード会社を見つけることに苦労し、このLPは結局、全く無名のレコード会社「German Orange」から発売され、ほとんどプロモーションされなかった。しかしこれは時代を超えて、ラウンジミュージックファンたちから非常に人気のレア作品となり、オークションサイトでは高額で取引されるようになった。そしてついに2008年に再リリースされた。

「ダニエラとアン」のプロジェクトが失敗に終わった頃、ダニエラは学校を卒業し、薬学の勉強を始めた。おそらく、ヒット曲のない彼女のレコードを音楽業界に提供したのは、最悪のアイデアという訳ではない。

1970年 20歳のころ

1970年、レコード会社「BASF」は彼女にもう一度チャンスを与えた。

ショートヘアにし、カラフルなドレスを身にまとうといった外見の改造を行い、彼女と契約を結び、3曲のシングルを発売した。

これらの曲は、コンテスト『Eurovision』でのドイツの未来のヒットメーカーである、ラルフ・ジーゲル(Ralph Siegel)によるプロデュースである。彼はのちに1982年の優勝者、ニコラ(Nicole)の“Ein Bißchen Frieden”を手掛けることになる人物である。

ジーゲルの下、ダニエラはムーディなシュラガースタイルに戻ったが、2枚目のシングル“Im Jahre 2002”(“ In the year 2525”のドイツ語バージョン)は確かにいくらか注目を集め、彼女の中で最も有名な曲となっている。

しかし勉強との平行で彼女にはプロモーションする時間があまりなく、この曲もチャート入りすることはできなかった。

「Ariola」は機会を見て、ダニエラが2年前にこの会社からリリースした3枚のシングルと、失敗作となった「Vibraton」からのLPから何曲かを組み合わせ、「新しい」LP『Meine Melodie ist die Liebe』として、レコード会社「Somerset」から発売した。

1970年代 その後…

1972年と1973年にダニエラは、ドイツのプロデューサーで歌手のピーター・オーロフ(Peter Orloff)指導の下、レコード会社「RCA」からLPを1枚と数枚のシングルを発売し、もう一度シュラガーへ挑戦した。

これに対する反応が良くなかったことを受け、ダニエラは薬学の勉強を終え、音楽業界からは完全に引退した。彼女は博士号とPhDを取得し、現在は医学の分野で働いている。

出典:Ready Steady Girls

ダニエラ(Daniela)について【ドイツ】の口コミ

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ダニエラ(Daniela)について【ドイツ】のディスコグラフィ

ダニエラ(Daniela)のシングル(EP)

ダニエラ(Daniela)のシングル(EP)
  1. Denk Noch Mal Darüber Nach / Schreib Mir In Einem Brief ‎(7″, Single)  1965
  2. Hippy Hippy Shake ‎(7″, EP) 1965
  3. Das Ist Wie Ein Paukenschlag / Ein Wunderbarer Sommer ‎(7″, Single, Mono)  1966
  4. I Got You Babe ‎(7″, EP)  1967
  5. Schmück Dich Nicht Mit Fremden Federn / Mister Schornsteinfeger ‎(7″, Single)  1967
  6. Die Welt Ist Leer, Die Welt Ist Grau / Er Ließ Mich Allein ‎(7″, Single) 1968
  7. Da Wo Die Blumen Blühn ‎(7″, Single)  1969
  8. Warum Denn Gleich Aufs Ganze Gehen / Nimm Jeden Tag Und Mach Ihn Dir Schön ‎(7″, Single)  1969
  9. Im Jahre 2002 / Das Muß Die Liebe Sein ‎(7″, Single) 1970
  10. Ich Bin Nicht Gern Allein / Ich Glaube An Dich ‎(7″, Single)  1970
  11. Schritt Für Schritt / Und Fällt Die Welt In Schutt Und Stein ‎(7″, Single)  1971
  12. Dimitri ‎(7″, Single) 1972
  13. Treu Sein Ist Schöner Als Frei Sein 1973
  14. Remember September / Und Der Wind Erzählt ‎(7″, Single) 1974
  15. Luzifer Lebt ‎(7″, Single)  1974

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