1966 メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Action

1966 メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Action

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「メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Action 」は、1962年~1966年にかけてザ・ベンチャーズのドラマーだったメル・テイラーが発表したソロアルバムである。

1966 メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Action

メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Actionについて

この1stソロアルバム『Action!』は、メル・テイラー(Mel Taylor)=ドラム が率いるヘヴィーなギターの小さなグループの、1960年代の素晴らしいインストゥルメンタルの愛らしいアルバム。

メル・テイラーのサウンドは、本当にヘヴィーなドライヴィング・サウンドだ!

テイラーは1960年代に、何百ものレコーディングにかかわったとされている。

ここでの彼のサウンドは、当時からハル・ブレイン(Hal Blaine)のインストゥルメンタル・アルバムのサウンドとよく似ており、テイラーはブレインの別名ではないかと思う人もいるだろう。

これはただの推測なのだが、同時期のブレインのロック・インストゥルメンタル・アルバムを聴くと、素晴らしいサウンドであると感じるだろう。

”Watermelon Man”、”Bullseye”、”Bongo Rock”、”Skokiaan”、”The Creeper”、”A Taste Of Honey”、”Drums A Go Go”、”No Exit”と、他の楽曲も収録されている。

メル・テイラー(Mel Taylor)について

メル・テイラーは、1933年9月24日にニューヨーク州ブルックリン(Brooklyn, New York)で生まれた。彼はグレース(Grace Taylor)とローレンス・テイラー(Lawrence Taylor)の最初の子供である。

母親はロシア/東ヨーロッパのユダヤ人の家の生まれで、父親はイギリス、ドイツ、オランダ、チェロキーにルーツを持つ、テネシー州(Tennessee)/ノースカロライナ州(North Carolina)地域の家の出身だった。

彼は最初の頃はブルックリンで過ごしたが、父親は1939年の夏に、彼をテネシー州ジョンソンシティ(Johnson City, TN)の家族の家に戻し、彼はその後何回も戻ることになった。

父と祖父と叔父は皆ギターやバンジョーを演奏しており、メルの人生にとって音楽は不可欠なものになっていった。

ニューヨークに戻った彼はポリス・アスレティック・リーグに入り、100ヤード・ダッシュで優秀な成績を収める。

彼はまた、野球チームのドジャース(Dodgers)に対しての生涯にわたる情熱を育んだ。

メルのドラムに対する興味も、早くから始まった。彼の母親は、彼が編み棒やドラムスティックでポットやフライパンを叩いていたことを覚えている。

学校で彼は鼓笛隊に入り、メイシーズ・パレードでマーチングした。
彼のインスピレーションはビッグバンド、特に彼がラジオで聴いてそのスタイルをコピーしたジーン・クルパ(Gene Krupa)から来ている。

10代前半でメルはテネシー州に移り、そこで高校に進学。

最初にフットボールのチームに入ってみたのだが、彼は自分がバンドでマーチングしたいと願っていることに気づいた。

彼は17歳で海軍に入隊し、五大湖(Great Lakes)地域での基本訓練の後、ペンサコラ(Pensacola)に配置になり、海軍パイロットの訓練施設の自衛官に任命された。

メル・テイラーは海軍を退役した後にテネシー州に戻り、ローカルのラジオやテレビ・ショーで演奏をはじめる。

彼の弟、ラリー・テイラー(Larry Taylor)(後のキャンド・ヒート(Canned Heat)のベース奏者)は、メルがエディー・スケルトン(Eddie Skelton)と共に、ジョンソンシティのロカビリー・TV・ショーでリズム・ギターを弾き、コーラスを歌っていたことを覚えている。

彼は後にジョー・フランクリン(Joe Franklin)のグループでドラムを演奏し、さらにエド・サリバン・ショー(Ed Sullivan Show)にも出演した。あるいは、ショーが放送された時、彼の腕は誰もが彼を見るように動いたのだ!彼はまた、(非常に)朝早くの時間帯の彼のラジオ番組「Mel Taylor And The Twilight Ramblers」で、ギターを演奏し歌った。

メル・テイラーは1958年に4人の小さな子供を含む家族で、カリフォルニアに移った。

日中、メルはロサンゼルス・グランド・セントラル・マーケット(LA Grand Central Market)で肉屋として働いた。商売はテネシーで学んでいたのだ。

しかし、夜になると彼はロサンゼルス地域周辺のクラブでドラムを演奏し、引っ張りだこであった。

すぐに彼は日中の仕事を辞めた。そして、レコーディング・スタジオでのセッション・ワークを卒業。

彼の初期の楽曲には、ボビー”ボリス”ピケット(Bobby “Boris” Pickett)と共演した”The Monster Mash”、ハーブ・アルパート・アンド・ザ・ティファナ・ブラス(Herb Alpert And The Tijuana Brass)と共演した”The Lonely Bull”(このバンドに彼は10ドルを払った!)、バック・オーウェンズ(Buck Owens)との多くの作品、などがある。

彼はまた、北ハリウッド(North Hollywood)で有名な、パロミノ・クラブ(Palomino Club)でハウス・ドラマーになった。

1950年代後半から1960年代初頭にかけて、音楽業界の人間は皆、パロミノを頻繁に訪れ、ハウス・バンドと共演していた。そのため、メルには多くのヒット・アーティストと出会い、演奏する機会があった。

1962年のある夜、ベンチャーズ(The Ventures)が、ハリウッドでのTV・ショーの後にパロミノを訪れた。しかし、その時彼らのドラマーがいなかったので、メルは彼らに願い入れて、”Walk Don”t Run”を共に演奏した。

後に、ベンチャーズはオリジナルのドラマーが旅行に行くことが出来ないからという理由で、グループに加わる気があるかどうか、彼に尋ねた。

まもなく、メルはいくつかのレコーディングに呼ばれ、数ヶ月後には彼らと共に歩み出した。

1963年からは、メルはベンチャーズのドラマーとして知られるようになり、32年以上に渡って彼らと共にレコーディングとパフォーマンスを重ね、アメリカ全土、ヨーロッパ、日本でツアーを行った。それらの国では、ベンチャーズの毎年のツアーはメジャーな文化イベントであるとみなされている。

1996年7月、日本でのベンチャーズのツアー中に、メルは肺炎と診断されたが、その後、肺に悪性腫瘍が発見される。

ツアーを継続するための代わりのドラマーが見つかるまでの間の、8月1日まで彼は演奏を続けた。

メルはさらに検査を受けるため、8月2日にロサンゼルスに戻ったが、がんはとても早く動いていたため、それから10日も経たないうちの、8月11日に彼は自宅で突然亡くなった。

彼は数百の録音作品という遺産を残してくれた。何百万人ものファンが、それを聴いて引き続き楽しんでいる。

1966 メル・テイラー&ザ・マジックス(Mel Taylor And The Magics)- In Action の曲目

曲目

01. Drums A-Go-Go (Buff) – 2:25
02. From Russia with Love (Bart) – 2:47
03. The “In” Crowd (Page) – 2:44
04. Bullseye (Hamilton) – 2:13
05. Bongo Rock (Epps, Egnoian) – 2:10
06. Skokiaan (Glazer, Msarurgwa) – 2:24
07. Watermelon Man (Hancock) – 2:45
08. Harlem Nocturne (Robin, Hagen) – 3:01
09. A Taste of Honey (Marlow, Scott) – 2:27
10. The Creeper (Wilson, Taylor, Bogle, Edwards) – 2:24
11. No Exit (Hamilton) – 1:59
12. Cherry Pink And Apple Blossom White (Louiguy, David) – 2:56

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