ザ・チャンテルズ(The Chantels)について【ガールズ・グループ物語】

The Chantels

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1950~1960年代ロックンロールの衰退とガールズグループの出現

1950年代。これまで、地域的な売り上げで上手くやってきた多くの小規模レーベルは、全国規模で争う経済的な余裕はなく、すぐに業界から姿を消した。

テレビや大衆雑誌の台頭(これも幅広い顧客層に向けたもの)により、ヒットメーカーばかりが大きく取り上げられ、他は忘れ去られてしまった。

以前はたくさんの小さな一切れに分けられていたパイは、より少なくより大きな一切れに分けられるようになったのだ。

皮肉なことに、この持つ者と持たざる者の世界(権力)により、わいろの激しさはますます増していった。全国的なヒットチャートに載るかどうかというプレッシャーはさらに大きくなり、またそれが実現した場合の見返りも、はるかに大きくなったからだ。

ロックンロールのルーツである「熱い主張や創造性や誠実さ」を、アメリカのトップ40ネットワークに広く受け入れられるだろうスタイルと融合しようという試みの中で、すぐにたくさんの作家やプロデューサーや歌手やビジネスマンたちが、ガールズグループサウンドとして知られることになるものを作り出した。

1957年ガールズグループ「チャンテルズ(The Chantels)」

1957年ガールズグループ「チャンテルズ(The Chantels)」の出現

この章の登場人物
  • ジョージ・ゴールドナー = ミュージックホールの経営者でレコード会社を設立
  • サム・ゴールドナー = ジョージのいとこでレコード会社に参加
  • リチャード・バレット = 歌手・ソングライター・プロデューサー

1950年代初期、ミュージックホール経営者のジョージ・ゴールドナー(George Goldner)は、ラテンミュージックファンたちの要求を満たすため、ニューヨークにレコード会社を設立。

そのレーベル「Tico」は成功し、ジョージはすぐに、近隣の町々から響き渡ってくる、新しく出現し始めたリズム&ブルースグループサウンドに興味を持ち始めた。

1954年

彼の新しい「Rama」レーベルは、男性グループ「ザ・クロウズ(The Crows)」の曲“Gee”と共に、1954年に全国的にブレイクした。この曲は、包括的な影響力を持つ初めてのR&B作品のひとつだ。

彼のいとこのサム・ゴールドナー(Sam Goldner)が加わり、すぐに新しいレーベルがいくつかスタートした。

まずは「Gee」レーベルの、「フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ(Frankie Lymon & The Teenagers)」、「クレフトーンズ(The Cleftones)」)、その後「Gone」レーベルの「ザ・ダブス(The Dubs)」、「アイズレー・ブラザーズ」)、また、それほど成功しなかった一連の冒険的企業もあった(「Juanita」、「Mark-X」、「Goldisc」、「Cindy」)。

ゴールドナーたちは、ほぼ排他的にディッキー・グッドマン(Dickie Goodman)の「空飛ぶ円盤(Flying Saucer)」レコードのみを扱うレーベル「Luniverse」も持っており、また初期の「Roulette Records」と「Jamie Records」にも関与していた。

ジョージ・ゴールドナーには才能を見出す力があり、莫大な量の、芽生えかけているロックンロールを、無名のところから全国的に有名なところまで引き上げた。しかし彼の自由で搾取的なビジネススタイルにより、しばしば財産は出たり入ったりし、何度も浪費された。

芸術的に見ると、ゴールドナーのレーベルが成功した主な理由は、リチャード・バレット(Richard Barrett)の存在だった。

フィラデルフィア(Philadelphia)出身のリチャード・バレットは、ゴールドナーの42番ストリートにあるオフィスに出入りするようになり、ジョージに数枚のオリジナルのレコードを売った。

バレットは生れながらの歌手であり、ソングライターであり、そしてプロデューサーだった。彼のグループ「ザ・ヴァレンタインズ(The Valentines)」はすぐに、ゴールドナーの「Rama」レーベルで安定した成功を収めた。

1956年

1956年、リチャード・バレットはジョージ・ゴールドナーに「フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ」に注目させ、それからすぐに彼らは、国中で最も大きなレコーディングとパフォーマンスのセンセーションを巻き起こすグループのひとつとなった。

ある夜、テレビ番組『Alan Freed Show』の舞台裏で、若い女性グループが自分たちのアイドル、フランキー・ライモンを待っていた。

待っている間に、彼女たちはグループのひとりが作曲したオリジナル曲“The Plea”をアカペラで歌い始めた。

フランキー・ライモンはその時それを聞かなかったが、同じステージに「ザ・ヴァレンタインズ」と共に出演していたリチャード・バレットは聞いた。彼は彼女たちのサウンドに魅了され、ジョージ・ゴールドナーにこのグループを紹介した。

ジョージは、若い女の子たちのグループは、リズム&ブルース市場では売れないと言い、初めは躊躇した。

リチャード・バレットはこれに反対し、もし彼女たちと契約しないのなら、他のアーティストたちに曲を書いたりプロデュースしたりしないと言い切った。

ジョージ・ゴールドナーはバレットの才能を失うことが何を意味するか知っていたので、遅まきながらゴーサインを出した。

リチャード・バレットは2ヶ月間稽古をつけ、彼女たちはデビュー作をレコーディングする準備が整う。

この5人組は、「ザ・チャンテルズ(The Chantels)」として知られることとなる。

ザ・チャンテルズ(The Chantels) の詳細

ザ・チャンテルズ(The Chantels) の詳細

ザ・チャンテルズのメンバー
  • アーリーン・スミス(Arlene Smith)
  • ロイス・ハリス(Lois Harris)
  • ソニア・ゴリング(Sonia Goring)
  • ジャッキー・ランドリー(Jackie Landry)
  • レナ・ミナス(Rene Minus)

ザ・チャンテルズ」は全員、ニューヨークのブロンクスの学校「Saint Anthony of Padua School」のクラスメイトだった。

このグループは、リードシンガーのアーリーン・スミス(Arlene Smith)が結成。

彼女はクラシックシンガーとしてのトレーニングを受けており、12歳の頃、コンサートホール「Carnegie Hall」でソロとしてパフォーマンスをしていた。

彼女たちは全員学校の聖歌隊で歌っており、そこではクラシック音楽とラテンの賛美歌が散在していた。

リチャード・バレットが出会った時のグループのメンバーは、ロイス・ハリス(Lois Harris)、ソニア・ゴリング(Sonia Goring)、ジャッキー・ランドリー(Jackie Landry)、レナ・ミナス(Rene Minus)、そしてアーリーン・スミスで、年齢は13歳から16歳だった。

ジョージ・ゴールドナーは、彼女たちを別のレーベル「End」からスタートさせることを決め、「ザ・チャンテルズ」はここに初めて所属するグループのひとつとなった。

(ところで「ザ・チャンテルズ」という名前だが、これはライバル学校の「Saint Francis de Chantelle」からインスパイアされたもので、確実に「The Anthony’s」や、ましてや「The Padua’s」という名前にするよりは良かった。)

1957年

バレットが総合的なアレンジを仕上げ、「ザ・チャンテルズ」は初めてレコーディングスタジオへと入り、当時15歳だったアーリーン・スミス作曲の“He’s Gone”と“The Plea”の2曲をレコーディング。

“He's Gone”

“He’s Gone”は失恋ソングで、“The Plea”はアーリーン・スミスが学校で学んだグレゴリアン聖歌をベースにしている。

このファーストリリースが、その後の「ザ・チャンテルズ」のほとんどの作品の方向付けをした。

リチャード・バレットがコードを作り出し、固く遠くエコーしたスネアがビートを保ち、そしてアーリーン・スミスのボーカルがその上から悲しげに響く。

ベース、時々はホルン、オルガンといった他の楽器も、残りのメンバーによる聖歌スタイルのサポートボーカルと同様に使われたが、本当に重要だったのは、ピアノと、スネアドラムと、アーリーンの声。

“He’s Gone”は全国で71位となり、新しいレーベルの新しいサウンドを持つ新しいグループとしては、比較的上手く行った。

この曲はまた、R&Bチャートにも大きな衝撃を与えた。

1958年

“Maybe”

1958年初期、彼女たちは2枚目のレコードとなる、リチャード・バレット作曲の“Maybe”を発売。

この曲は、今後の「ザ・チャンテルズ」の全ての作品と比較されることになる作品となった。

発売時、このレコードは文字通り、爆発した。このレコードの衝撃と魅力は、単純に素晴らしい。リチャード・バレットはこの曲を一連のピアノ三連音符で始め、悲しく響くボーカルコーラスが加わり、その後アーリーンの、これまでで最も焼け付くようで実直とも言えるボーカルパフォーマンスが、我々の心を引き裂く。すべてが共にやってくる。

教会的なゴスペルの影響が、営利的なリズム&ブルースの感覚とうまく噛み合っている。非常に説得力があり感動的なことに、アーリーン・スミスはこれをレコーディングした時まだ16歳だったということに気付いた時、“Maybe”はより強打となる。

この曲は、ティーンの心も大人の心もどちらも掴んだ。

ザ・チャンテルズ」の作品は、洗練されている訳ではない。荒削りで、もし注意深く聞けば、時々音を外していることにも気付くだろう。しかしこれは、彼女たちの激しさでありムードのあるリアリズムであり、これにより彼女たちは独自の存在となる。

“Maybe”は全国チャート55位となり、翌週には32位に到達。

しかし、信じられないほど人気が爆発したことで、ジョージ・ゴールドナーと「End Records」に問題を引き起こすことになる。

単純に、需要に素早く対応することができなかったからだ。

多くの都市では密売人が現れ、ゴールドナーがオーダーを満たす前に、数千ものレコードが売られた。

密売人たちは、ただ一万枚のレコードを複製し、ステーションワゴンに詰め込み、縄張り内をドライブし、その日のうちにそれを売り切るということをしていた訳ではなく、間接費やロイヤリティーや広告費や輸送を気にすることなく、それらを行なったのだ。

このやり方で、彼らは容易にゴールドナーの公式価格を下回ることができた。

こういった売り上げとオーダーの食い違いにより、このレコードは15位に到達するに過ぎなかったが、1年の3分の1の期間、チャート上に留まった。

“Maybe”は当時の最大売り上げレコードのひとつとなっただけでなく、その後何年にも渡り、ミュージシャンやプロデューサーたちに多大な影響を与えた。

“Every Night (I Pray)”

“Maybe”の成功に続く「ザ・チャンテルズ」の次の2作品は、芸術的にも営利的にもいくらか期待外れだった。

“Every Night (I Pray)”は、いい点をあげれば感動的ではあったが、“Maybe”の直後としては、ただ似たようなサウンドの、劣った作品だった。

チャート入り2週目で40位となったがこれがベストで、その後11週をかけて、ゆっくりではあるが着実に順位を下げる。“I Love You So”では、わずかにフォーマットの変更があったが、同様の営業的な宿命に苦しんだ。

そして彼女たちの作品は、ポップチャートで成功を続けるには「洗練されていないブラックR&Bサウンド」過ぎると、多くの人たちは考えた。

また、若い女の子たちのグループがR&Bを歌うのは目新しいというだけで、“Maybe”の成功は単に一度限りのまぐれ当たりだと考える人たちもいた。

この頃、彼女たちとレコード会社の関係だけでなく、グループ内部の関係も悪くなっていった。印税はほとんど入らず、彼女たちの最初の4作はチャート入りしたものの、「End」からのその後のたくさんの作品は、トップ100に入ることができなかった。

ジョージ・ゴールドナーはそれでもレコードを売り続け、今やゴールドナーの経営の重役となっていたリチャード・バレットも、「ザ・チャンテルズ」をマネジメントしていたが、リリースと作曲の評判は落ちていった。

1959年

1959年と1960年を通して状況は悪くなり続け、ザ・チャンタルズのメンバーたちは会社に対して、どんどん幻滅を感じるようになった。時が経つにつれ、ジョージ・ゴールドナーのグループのほとんどが先駆けたR&Bサウンドには、営業的な支持はなくなっており、彼の組織は新しい土地へ入って行きたくない、もしくは入って行けないように感じられた。

ゴールドナーの経済的債務により、最終的に会社の活動を事実上休止しなければならなくなり、結局「Roulette Records」を売ることになった。

リチャード・バレットはザ・チャンテルズを「Carlton Records」レーベルへ引き継いだが、アーリーン・スミスは入っていない。彼女はグループを去り、自身の道を進んだからだ。

1961年

リチャード・バレットの厳しい舵取りの下、新しいザ・チャンテルズは「Carltonレコード」からのデビューリリース“Look In My Eyes”で14位となり、続く“Well I Told You”では29位に到達した。

これにもまた、安定したドラムビートとゴスペルにインスパイアされた聖歌のエフェクトがあったが、リチャード・バレットは今度は、メインとなるグループボーカルに、重ねて柔らかいストリングスと打楽器のエフェクトを加えることにより、サウンドに磨きをかけたが、リードボーカルは、ほぼ完全に消えていた。

実際、アーリーン・スミスがグループを去ってから、バレットは時々、作品によって違った「ザ・チャンテルズ」を使っていたし、必要があれば、予備のメンバーやセッションシンガーさえも雇った。

過去にはバレットは、実際のグループサウンドを捕え雰囲気作りをしようと試みていたが、現在は作曲をし、アレンジをし、レコードをプロデュースすることが1番で、実際のグループサウンドや人事は2番目に重要なこととなっていた。

この展開は、その後続くほぼすべてのガールズグループのトレードマークとなっていった。

続く数枚の「ザ・チャンテルズ」のリリースは営利的に成功しなかったので、バレットの優先順位は他へと移り、彼女たちは見捨てられすぐに業界から姿を消した。

チャンテルズメンバー、アーリーン・スミスのソロ活動

アーリーン・スミスの音楽業界への初めての挑戦は、彼女の心に苦いものを残し、彼女は人生をこれ以上そこに捧げる熱意を失くし、「プロフェッショナル・チルドレンズ・スクール」で勉強を続けた。

そして時々、様々なレーベルで一枚限りとなるシングルを数枚レコーディングしている。

1961年初期、彼女はレコード会社「Big Top Records」と契約し、ジェリー・リーバー(Jerry Leiber)とマイク・ストーラー(Mike Stoller)の下で働くためにニューヨークへやって来た、将来有望な20歳の若者がプロデュースしたシングルをレコーディングした。

グループ「ザ・クローバーズ(The Clovers)」の1956年のヒットとして知られるそのレコード“Love, Love, Love”はすぐに忘れ去られてしまうが、そのプロデューサー、フィル・スペクター(Phil Spector)は、それと同じ運命を辿ることは決してなかった。

ザ・チャンテルズ」のチャートへの影響は短命ではあったが、それでもなお、彼女たちの後に続こうと他者を駆り立てた。

出典:Girl Groups The Story of a Sound

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